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一歩を越える勇気   栗城史多 ~彼を下山家と揶揄するアホ共に贈る~

僕も一端の山屋だ。
今回の読書感想文は
彼を下山家と揶揄するアホ共に贈る。

①エンターテーメントの登山

登山という変人達の趣味をエンターテーメントにしたのは、栗城くんの力であろう。
それが良い事だったのか悪い事だったのかは分らない。
山に通信機器を担ぎあげて、ネット配信する。
登山という泥臭いアナログの遊びをデジタルに変換して、お茶の間に届けて感動を共有する。
それが良い事だったのか悪い事だったのかは分らない。
しかし、とにかく栗城くんは時代を作った。

身長162センチ。体重60キロ。僕と変わらない体系だ。
情熱と行動力と運で。
マッキンリー、アコンカグア、エルブルース、キリマンジャロ、カルステンツ・ピラミッド、チョ・オユー、ビンソンマシフ、マナスルと、大陸最高峰を登頂した。

「腕力筋力肺活量 全て平均以下です」と精密検査をして医師に言われたらしい。
確かに、そんな気がする。彼は強くない。
チョモランマへの敗退を繰り返した。
いつまでも情熱と行動力と運だけでは山は登れない。
それは僕にだって分るし、彼自身が一番よく分っていた事だろう。

世間に顔が知れると同時に、敗退を繰り返し、世間から叩かれる。
それでも、登頂するだけではなく配信する目的にこだわりチャレンジを繰り返した。
凍傷で指を落とし。
それでも山に入る。

「エンターテーメントの登山」という時代を作った彼は、
その時代に振り回されるかのように、愛する山で亡くなった。


②下山家と揶揄するアホ共に言いたい。

世間は途中敗退を繰り返す彼を「下山家」と揶揄した。

山屋の端くれとして僕はそんなくだらないアホ共に言ってやりたい。
「下山するには、そこまで登っているんだよ!」と。
「何もせずに、夢すら持たずに、どこにも登らず、歩きもせず、パソコンの前から、誰かを叩く事で気持ち良くなっているんじゃねーよ!」と

彼は間違えなく「下山家の前に登山家なのだ」

③僕の海外登山

僕は中国西海省の玉珠峰(6,178m)の西にある山頂に登頂した。
命名権をもらって「西玉珠峰」と名付けられた。5864mだ。
5050mをBCにたかだか800mの登山。
高度順応も順調で元気いっぱい。
5700mまではなんて事はない。順調に登った。
が、それからの100m。全く足が進まなくなる。
1歩出しては20呼吸休むの繰り返し。
高度登山とはそういうものか。。。と実感した。
たかが5864mその苦しさと登頂の喜びは、やった者にしか分るまい。

栗城くんが亡くなったのは2018年5月。
僕が2度目の離婚をした頃だ。

実は、僕はその頃にK2への登山を夢見ていた。
「西玉珠峰」もその前準備だった。
でも、そこは僕らしい。山より女に溺れて。ごたごたして。山への情熱が薄らいで。K2どころじゃなくなった。

僕と同じくK2を夢見ていた仲間は、その夏、夢の通りにK2に挑んだ。
残念ながら彼は体調不良で登頂はできなかったが、多くのメンバーが登頂を果たして遠征は大成功であった。
しかし、1名、登頂後の滑落で命を落としている。
それも登山の現実だ。

僕は僕の中のK2の夢が自然消滅した事を後悔はしていない。
僕らしいなと思う。
僕ごとき実力で情熱と行動力と運だけでK2に向かったのなら、K2は怒っただろうな。
命は無かったかもしれないな。と思う。

そんな僕に比べたら。栗城くんは遙かに凄い登山家だ。


④登山とはもともとクラウドファンディングなのだ。

栗城くんの何が凄いかって、これだけの山に入れる資金調達力だ。
「他人の金で山に登って敗退か。」と叩く無知者は多いが、なにも分っちゃいない!
登山とは大昔からあるクラウドファンディングなのだ。
「僕の夢を買ってください。」と自分の夢を売る情熱。
それを買うも情熱なのだ。
登頂できようが敗退しようが、そこに感じられる共通の情熱。
それが登山なのだ。
それを分りやすくエンターテーメントにしたのが栗城くんなのだ。
それすら分らない奴は黙って炬燵でミカンでも食べていろ!
と思うのだ。


⑤まとめ

この本は
生きていれば必ず挑戦できる。
生きていれば。どんな事でも。

という言葉で結ばれている。
ともしたら、彼はこの自分の言葉に縛られて死んでいったのかもしれない。

栗城くんも、どこかで止めたかったんじゃないかな。なんて思う。
山を愛する山屋は山で死んではいけない。

それが愛する山への礼儀だ。
生きて。多くの事を語ってほしかった。


⑥栗城くんの実績

1982年6月9日 - 北海道瀬棚郡今金町に生まれる。
2002年年末 - 中山峠から小樽市の銭函まで、1週間程度の雪山(標高1,000m前後)の年越し縦走を行った。
2004年6月12日17時10分 - マッキンリー(北米最高峰 標高6,194m)登頂。
2005年1月 - アコンカグア(南米最高峰 6,959m)登頂。
2005年6月 - エルブルース(ヨーロッパ最高峰 5,642m)登頂。
2005年10月 - キリマンジャロ(アフリカ最高峰 5,895m)登頂。
2006年10月 - カルステンツ・ピラミッド(オセアニア最高峰 4,884m)登頂。
2007年5月 - チョ・オユー(世界第6位高峰 8,201m)登頂。
2007年12月 - ビンソンマシフ(南極大陸最高峰 4,892m)登頂。
2008年10月 - マナスル(世界第8位高峰 8,163m)に「無酸素」「単独」登頂したと主張するが、
ヒマラヤン・データベース、日本山岳会の双方から登頂を認定されていない
2009年5月 - ダウラギリ(世界第7位高峰 8,167m)登頂。インターネット生中継を行う。
2008年9月 - チョモランマ・北稜北壁メスナールート(世界最高峰 8,848m)登頂を目指したが、7,950mで敗退。
2010年5月 - アンナプルナ(世界第10位高峰 8,091m)登頂を目指したが、7700mで敗退。
2010年8月末から - 2度目の挑戦となるエベレスト・南東稜ノーマルルート登頂を目指したが、7,750mで敗退。
この挑戦では栗城隊のシェルパが1人死亡している。
2010年12月 -登山とインターネットを結んだ功績が評価され、ファウスト大賞を受賞
2011年5月 - シシャパンマ(世界第14位高峰 8,013m)の登頂を目指したが7600m地点敗退
20118月末 - 3度目の挑戦となるエベレスト・南東稜ノーマルルート登頂を目指したが敗退。
2012年5月 - シシャパンマ登頂を目指したが、7000m地点到達前敗退。
2012年8月末 - 4度目の挑戦となるエベレスト・西稜ルートで登頂を目指したが7700mで敗退
2013年11月から2014年1月にかけて、2012年に受傷した凍傷のため右手親指以外の両手指9本を第二関節から切断
2014年7月24日 - ブロード・ピーク(世界第12位高峰 8,047m)登頂。
2015年8月末から - 5度目のエベレスト登山に挑み、敗退。
2016年5月 - アンナプルナ、6300mで敗退。
2016年9月より6度目のエベレスト登山。7400mで敗退。
2017年春 - 中国側からエベレスト北壁に挑むとしていたが、6800m付近敗退。
2018年5月21日 - 8度目のエベレスト死亡している栗城の遺体を発見した。35歳没。

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