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note 17/9月になったら、マーベラス・ミセス・メイゼルについて話そう①

 9月になっても夏は終わらないですね。いつまで夏は続くのでしょう。

 夏がくれば思い出す。ということで、2年前の手術とあの時の痛み、混乱について書いてきましたが、そんな時だからこそ、ハマったものも書いておこうと思います。
 痛かったし、具合が悪かったし、暑かったしで、ジッとしているしかなく、映画やドラマを観て、本を読んでいた夏。もうずっと、そうやって暮らしてはきたのですが、そんな自分の暮らし・時間を、改めて真剣に考えたのが2年前の夏でした。

 手術が終わって、家に帰ってきてから観始めたもの。「いまだからこそハマった」と思ったもの。それは『マーベラス・ミセス・メイゼル』です。ピークTVにまんまとハマり、いろいろなTVドラマを追いかけてはいたのですが、なぜか今作は気になりながらも、スルーしていたのです。だけど、あの夏、病院から帰ってきて、なにもできなかった時に、観始めたら、ハマってしまいました。
 そもそも『マーベラス・ミセス・メイゼル』のことが気になったのは、ポッドキャスト『POP LIFE : The Podcast』の#273・TVドラマについての回を聴いていた時です。ゲスト出演していた、☆Taku Takahashiさんが「世の中のドラマでこれが一番好き」と話されていたのが、心に残ったのです。
 それまでは、その回でも話題になっていた『ベター・コール・ソウル』や『ストレンジャー・シングス』を興奮して観ていて、他にも『愛の不時着』『梨泰院クラス』などをミーハーに追いかけ、『ナルコス』『オザークへようこそ』『THE OA』などにも夢中でした。もっと遡れば『ゲーム・オブ・スローンズ』や『ブレキング・バッド』があり、まさにピークTVに生活を振り回されていました。そうしたTVドラマ作品については、いろいろな方が、たくさんの作品を取り上げ、解説や考察もさまざま出ています。なので、いまさらなにを書いても、どこかで見たり、聴いたりしたものになってしまうと思うのですが、いずれ、ぼくも自分が観たものについて、まとめてみたい、整理してみたいと思っています。

 話を『マーベラス・ミセス・メイゼル』に戻しましょう。正直に言えば、観てすぐに「これはすごい!」となったのではなく、「いつの間にか」という感じでハマっていきました。そのポッドキャストで、三原勇希さんが「最初はあまり面白くないけれど、一話の最後の10分で突然面白くなる」というような話をされていて、それは「まさに!」ですね。その場面は、ミッジがステージで酔った勢いで脱いでしまい、逮捕されるというシーンです。いま思い返してみると、このドラマのすべてがあの場面に集約されていることに気づきます。ミッジという女性が、ステージに立ち続けるというのはどういうことなのかを、あの場面から伝え続けてきたのが『マーベラス・ミセス・メイゼル』なのです。それは彼女が自分を「見せて(晒して)」「話して」いくことで、人生を変化させながらも、自分らしく続けていくということです。受け取る側(お客さん/視聴者)はそれを「笑う」ことで、自分の中の「なにか」にふれていくのです。
 このドラマから受け取る「なにか」ってなんだろうと考えたりしますが、それって、もしかしたら、自分があまり好きな言葉じゃないかも、と思うのです。だって「夢」とか「勇気」とか、そんな前向きな言葉ばかり浮かんできちゃうから。

 「笑う」ことって、どうして、こんなに大事なんだろう。必要なんだろう、って思うことがあります。それはこの作品だけではなく、日常の中でも思います。当たり前に「笑っていたい」と思うし、相手が「笑ってくれている」と安心します。それこそ、絵文字ですら、悲しい顔や怒った顔で送られてくると気にしちゃいますよね。
  なので「ウケない」ことを観るのはツライです。そんな場面もたくさんあります。だって、ミッジが自分のステージをちゃんと届けることができるのは、最終回の最後の10分なのだから。今回、この原稿を書くにあたって、改めて見直してみると、この壮大なドラマは、じつは第1話の最後の10分と、最終回の最後の10分にすべてがあるのではないか、と思いました。もちろん、それはとても感動的で、そこまで観てきたからこそ、こみ上げてくるものがあるのですが、そこにすべてがあるって「凄すぎ」ですよね。
 もはや想像もできない予算と時間がかかっていると思うし、多くの一流の方たちがプライドとスキルを持ち寄り製作されたのでしょう。そのとてつもないパワーをあの10分に感じてしまうと、このドラマに出会えたことに感動しちゃいます。

 オープニング後のタイトルコール。毎回違っていて、毎回意味があり、その華やかさ、可愛らしさ(時に不穏な感じも)に思わず、「いいなぁ」と呟いてしまいます。できれば、ひとつひとつを切り取り、持っていたいくらいです。ワンカメ撮影(もしくはワンカメ風の撮影)は、この作品が特別なものだということを教えてくれます。ジョールが職場(縫製工場)に入っていく時も、ミッジがストリップ劇場でステージに向かう時も、ぼくたちは一緒に出かけていきます。小さなカフェも、無駄にキラキラしているデパートも、あのカーネギーホールでさえも「入っていいよ」と言われているようで、ついて行ってしまいます。洋服、帽子、バッグ、靴……ミッジの色を読むことで、その時アメリカでなにが起こっているかを、考えます。
 そうやって、このドラマの素晴らしさをあげていけばキリがないのですが、時代背景・社会背景もふんだんに盛り込まれていて、女性が仕事をしていくことの難しさ、それを乗り越えていく逞しさを観るという、エンパワーメント物語としても見応えがあります。
 
 だけど、ぼくはそこからちょっとズレたところで、ハマったのかもしれません。というか、さっき「観てすぐにすごい!と思ったわけではない」と書きましたが、もうちょっと正直に書くと、観ていると、けっこうイライラしたり、苦しくなったりするんですよね。なかなか単純に「好き!」と言えない感じで……。じつは、登場人物みんな、あまり好きではなかったんです(笑)。
 「あいつ嫌だなぁ」とか「あいつ合わないなぁ」とかではなく、みんな嫌だったんです。どの人も「それを言っちゃうんだ」と思うし、言ったら言ったで、とにかく台詞が長いんです。しかも、日本ドラマのような状況を説明する台詞ではなく、自分が思っていることを言葉にしちゃうから、響きます。また、どの言葉にもしっかり表情があって、そのあたりの演出もさすがだと思いました。自分を「見せる」「晒す」ことで、相手を「笑わす」ということは、どうしても自分の中の業の深いところにふれてしまうということ。時にそれは自分だけではなく、自分の周りも含めた「すべて」をおかしく見せることになるということ。そのことに自覚的にならないと、この物語を、登場人物が語っていくことはできないのではないかと思いました。製作状況が贅沢だったのもあるかもしれませんが、長く、じっくりと、良く言えば丁寧(悪く言えばイライラ、ジタバタと)に物語は進んでいきます。

 また、ぼくはステージに立つこと、そこで言葉を話す、ということにもかなり考えさせられました。物語は50年代後半から60年代前半にかけて展開していきます。それはまさにビートの時代で、ケルアックがいた時代です。デュランも出てくる頃ですね。ガスライトのような場所で、オープンマイクで、詩を読むというのが日常的に行われていた時代です。そのような場所にミッジのような芸人もいて、恐らくぼくのような詩人もいて、他にもパフォーマンスをする人たちがいます。それは、自分を「見せる」ことがいままでとは違った意味で始まった時代だったのではないでしょうか。そして、それが「言葉」によるものだったということに、考えさせられるのです。

 スタンドアップコメディーというものを、ぼくたちは映画やドラマの中で知ります。それは字幕で観るというになります。このドラマでは、ミッジのパフォーマンスを声で聞きながら、字幕を読み、そこに観客の笑い声が重なってくるという不思議な高揚感がありました。「笑いたい」と思うと、人は言葉を理解する力が増すのではないか。そんなことを観ている間、考えていました。(詩を聴くのは、その逆で言葉をなかなか理解できなくなるのでは、と思ってしまいました)

 ディランといえば、最終回の冒頭、落ちぶれたレニーが出てくる時に「Queen Jane Approximately」がかかりますね。あそこもたまらないです。
 そうなんです。このドラマはレニーなんです。シーズン4の第8話。病院からステージに来て、義父の話をするミッジ。ステージと劇場全体が一体になっていく奇跡。そこにレニーが来て、ミッジを見つめていると、警察の手入れが入る。この時のワンカメ風撮影はとにかくすごい。レニーに手を取られ、雪のニューヨークに出ていくミッジ。自分を晒してきた者同士がやさしさを持ち寄る夜は甘く、切ない。そして、それは刹那的で、とてもかなしい。
 その後、カーネギーホールでレニーがミッジに話す「仕事を断るな」「俺を悲しませるな」という言葉。レニーは、ミッジから蔑んで見られていると思っています。だけど、ぼくは、ミッジはほんとうにレニーを尊敬していたと思います。カーネギーホールに入っていく時のミッジの視線を伝えるワンカメ風撮影からも間違いないと思います。だけど、レニーはそう思えなかった。大きなステージに立てたのに、「それが正解ではない」とわかってしまい、「誰の前座にも立たない。自分の言いたいことを言う」と決めたミッジが正解らしきものに見えてしまったからでしょう。

 次回はその正解らしきもの、「自分のステージ」とはなにか、について書きたいと思います。

 最後に……最終回、レニーがもう一度出てくる場面があるのですが、それはあの雪のニューヨークの夜のアフターですね。ふたりで中華を食べている。レニーがミッジにサインの練習をさせている。そんなのを最後に見せられたら、泣きますよ。泣くにきまっています。


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武田こうじ
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