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note16/夏について/よっつ/aftersunを観て

 夏がくれば思い出す。夏はいつも過去。8月の原稿。書きたいのか、書かなきゃいけないのか。なぜ書こうと思うのか。そんなことをくりかえし考えながら、書いていると、「そもそも」こんなことが書きたかったのか、「なにを」書こうと思っていたのか、わからなくなる。なので、ある程度そんな自分を想定していないと続かないので、「やれやれ」といつも言いながら、適度に振り返りながら、校正をする。そして、どこかで終わりにしないと、残すことができないので、ある部分で投げ出す。「もう、ここでおしまい」と。
 さて、そんな夏の原稿を書くにあたって、くりかえし観た映画が『aftersun』です。好きな作品はなんども観ます。本も。ドラマも。映画も。だけど、この映画はちがった意味でくりかえし観たように思います。
いまは、映画についての解説や考察が至る所に載っているので、わからなくなったり、疑問に思ったりすることはすぐに調べることができます。むしろ、そうしたことを想定して、作られている作品もあるし、実際それは消費するにあたって、うまく作用していると思います。ぼくも、はじめは「あれ、この監督、前作はいつだっけ?」とか「あっ、この俳優どこかで見たけど、なんの映画だったかな?」とか、そんなことを検索しているのですが、気づけば、作品の解説などを読んでしまい、「映画を観る」こと自体の面白さを疑うことがあります。(解説などを追うことで助けられることもあるのですが、そもそも映画はそうやって解き明かしながら観るものだったのか、という疑問です)

 『aftersun』に関しては、はじめは映像の面白さに惹かれて観ていました。だけどビデオで撮ったところが、どうしてもかなしく、苦しく見えてくるので、「これはなんかあるぞ」となり、時系列を追い、展開を整理しながら観ていこうと思ったのですが、そうなるとソフィとカラムの表情を見失ってしまうので、時系列を追うのを諦め、まずはただ観ることにしました。
それだけでも、十分に切なく、いろいろなことを思いながら観ることができたのですが、「もしかしたら、なにか見落としたのではないか」とか「あの場面のあのやりとりはなんだったのだろう」とか「あれ、あの時、変なことしていたよね」とか思い返しては気になってしまい、また再生をする。そうすると、確認できたり、理解できたりするのだけれど、またちがうところが引っかかってくる。で、思わず調べてしまい、また再生をしてしまう。そんなことをくりかえしたのです。
 
 過去にふれること。過去にハマること。過去に向き合うこと。言い方はなんでも良いのですが、生きているということは、過去につき纏われることだと思っていて、過去といまをつなぐことができるのか、というのをテーマにして、このnoteを書いているぼくのような人間はこの映画に完全にやられてしまったのです。(と思っていたら『瞳をとじて』もまさにそんな作品で、そのことについても、いつか書きたいと思います)

 年を重ねていくと、過去が増えていくわけですが、そうなると、どうしてもノスタルジックな気持ちが増えてしまい、「昔は良かった」的なことをつい言ってしまいます。「つい」言っているうちは、いいのかもしれませんが、考えて、そう思って、言ってしまう自分はちょっと気になります。ほんとうにそう思ってしまっている分、新しいことに出会うことが面倒になってしまっているような気がして。
 また、実際の思い出(体験)とかではなく、もののことも。レコード、カセット、ビデオ、本などは自分を形成していくうえで、とても意味があったものだし、大切にしていたものでもあるので、そうしたものを扱っている作品などを見ると、「つい」反応してしまいます。レコードにしても、ビデオにしても、その形態ではなく、中味が大事だったのですが、時代とともになくなっていくと、中味だけではなく、その形態にも思い入れが出てきてしまいます。だからと言って、収集するほどではないのですが、それはどうしてなのか、と考えることはあります。

 で、それって、いろんなことと関係しているからなのかなと思ったり。つまり音楽を聴くというのは、その音楽だけではなく、レコードを手に入れる。レコードをプレーヤーに乗せる。スピーカーから音が出る。そして、出会った時の自分、手に入れた時の自分、聴いている時の自分の状況。状態。そうしたものが関わってくるものなのだということ。もちろん、評論の世界において、作品だけを評価していくことの大切さもわかるし、ぼくもそうしたものに影響を受けてきたのですが、いま、こうして自分でnoteに書こうと思ったのは、ぼくが書くなら、作品論ではなく、自分にとっての「なにか」を書くことなのではないか、と思ったからです。

 それで……ビデオのことなんですが、ぼくはレンタルビデオ屋で10年アルバイトをしていました。その当時はDVDではなく、ビデオです。その10年間は自分にとって、とても大きな10年だったので、思い出すといろいろありすぎて、普段はあまり思い出さないようにしています。だけど、辞めてかなり経つのに、いまだに夢で見る時があったりして、そんな時は改めて、あの時間の濃さについて考えてしまうこともあります。
 そのビデオ屋自体が閉店するということで、ぼくのアルバイト時代は終わったのですが、ちょうどその頃、ビデオはDVDに変わっていくタイミングでした。そして、いまでは家で映画を観るということは、配信で、ということになりますね。だけど、ぼくの部屋にはビデオテープがあり、再生できるデッキもあり、時々観てしまうのです。同じ作品でも、なんか、違う感じがして、ノスタルジックにもなるし、心のどこかがザワザワもします。それが自分にとって、大切な「なにか」だと思う時は良いとして、「うーん、なんかなぁ」と思う時はダメだと思って、やめます。そんな迷子のようになってしまうところを部屋の中にいくつかつくっています。


 そういう意味では『PERFECT DAYS』は微妙だったんですよね。あの作品を観ていると、ノスタルジックなものに対して、あまりにも肯定的な感じがしたんですよね。(もちろん、それ以外でもあからさまなプロパガンダなものとしての違和感もありましたが)
 思い出迷子ついでに書くと、ヴェンダースはもちろん、好きな作家だし、多くの作品に感動してきました。学生時代などはヴェンダースが優れた作家だと疑っていなかったけれど、その頃の自分が『PERFECT DAYS』を観たら、やっぱり感動してしまうのだろうか。それとも、いまの自分のように「なんかちがう」と思うのだろうか。あの作品を観ながら、そんなことも考えました。

 『aftersun』はソフィが当時のカラムと同じ年齢になり、あの夏にふれることを描いています。そうなんですよね、過去を振り返ることは、同時に過去から見た「いま」にふれることでもあるんですよね。ぼくも「いまの自分の年齢の親を覚えている」と考えてしまうことがあります。それは子どもの時にはわからなかったことがわかることでもあるし、なんとなく、いろいろな事情を踏まえて生きていかなくてはいけない大人というものを受け入れることでもある。だけど、同時に自分の親との「ちがい」もまた子どもの時とは別の回路で理解してしまうことでもあります。正直、ぼくはソフィのように親に「わかってあげられなかった」という思いは持てなかったのですが、友人にはそう思うことがあります。
  自分にとって、大切だった友人、ふたりを亡くしていて、そのことは毎日考えてしまいます。考えても仕方がないと思っても、考えてしまいます。もう、なにもできないこともわかっているのですが。
 

【詩】# 34 見えてきたのに逸らしてしまう

なにもない部屋
カーテンとタオルだけ

なにもないね と言えば
たくさんあるよ と聞こえてくる

シャワーを浴びる
叫びたい
電話をかける
叫びたい

伝わってしまうことを
伝えて

あなたがすべてだったと思うのは
あなたがそう、ぼくに教えてくれたから
わたしはあなたのすべてではない
そう教えてくれたのもあなただった


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