見出し画像

映画『正欲』でAセクシャル・リスロマンティック自覚

映画『正欲』を観たことで自己理解が深まり、自分の性的・恋愛的指向に気づき、自己肯定に繋がった経緯について書く。

(私は「アセクシャルなリス・パンロマンティック」、性別やジェンダー問わず性行為を望まない、片想いの恋愛で十分な人間です)


観る前の自分 (精神障害者)

当初「観る前の自分には戻れない」というキャッチフレーズが大袈裟に聞こえてしまい、期待を裏切られることを恐れて観るのを躊躇していた。

鑑賞後「認知されづらいばかりに多様性のトレンドからも度外視され存在していないのと同然の扱いをされ続けるマイノリティたち」が自分のことのように感じられたが、案の定「観る前の自分には戻れない」ほどの影響は受けなかった。

......と思っていた。でも感想文を書きながら思考を整理しているうちに、自分の個性だと思ってきた精神障害(複雑性PTSD)は、セクシャリティ・性的指向(アセクシャル/無性愛)が侵害されてきた結果に過ぎないことに気づいた。



⚠︎ここから性被害経験が抽象的に描かれますのでご注意ください。



私は物心つく頃より父親から「愛情表現」として猥褻を受け始めたため、フラッシュバックしても「悪夢」だと思い込み、自分の不快感や恐怖心や不信感や怒りも「無いこと」にしようとしてきた。

34歳の時に初めて受けたゲシュタルト療法で、4歳の頃からの悪夢を性的虐待と認め始めることができた。その後もトラウマ治療を続けているが、複雑性PTSDという精神障害のあらゆる症状は相変わらず日常的に出てくる。

無数の症状の中でも「性的虐待順応症候群」は珍しくない割に、私も最近まで無自覚だったほど、自覚している人は極めて少ないと感じる。

症状の特徴として、性被害の事実を認められなかったり、隠したり、事実と認めた後に取り消したり、加害者に順応しようとしたりする行動あり、本人も自覚できないほど解離していたりすることも少なくないからだ。

いつまで経っても自覚できずに助けを求められない状況が続くため、被害が拡大・複雑化しやすく、自殺や他殺に至るまでの様々な暴力連鎖が継続される危険性も高い。

絶対服従の環境下で、体・感情・思考・意識・感覚などを麻痺させながら加害者に順応し、自分をどうにか守ろうとするトラウマ反応・防衛本能の一種だが、同時に自他を傷つけ続ける諸刃の剣

私の場合、性的なことはしたくないのに、他人の性的欲求を察知すると思考や体が勝手に動く

例えば、自分を性的対象として見てくる人が頭から離れなくなる(…ってことは本当は自分も相手が好きなのかも?という具合に自身を騙そうと脳が自動運転していたことに気づいた頃には性被害が常習化し、しまいには自分の大切な人に自ら加害をしてしまうほど泥沼状態になっている等々)。

加害者を好きになれれば全てを有耶無耶にできると思い込みながら順応してきた分、側からは「あなたにも気があったのでしょう」と見える。恋人からは「浮気をされた」と責められ、否定も肯定もできず、恋人に女性不信やトラウマ症状を生ませるほど傷付けててしまう。性被害を認めるまでに時間がかかりすぎて「嘘」「言い訳」と捉えられる。そもそも誰にも理解してもらえないことを知っているから、加害者よりも自分の存在を呪いながら対処しようと悪あがきする無限ループの中で彷徨うしかなかった。

性的なことをしたくないのにしてしまう」自分のことを私は「性的虐待順応症候群」や「セックス依存症(性嗜好障害/強迫的性行動症/性依存)」などの症状が出る者(複雑性PTSDの精神障害者)という認識でいた。

でも「してしまう」症状はあくまで性被害の結果であって、小さい頃から大人になっても本心では「したくない」人間としての芯、一貫性があったことを今回、思い出したのだ。

観た後の自分 (無性愛者)


性的な欲求を抱かない人をアセクシャル(無性愛)と言うが、私はこれに当てはまる(英語表記Asexualの発音は「エイセクシャル」)。

でも恋愛感情はあるのでアロマンティック(非恋愛)ではない(Aromanticの発音は「エイロマンティック」)。

私の性経験の相手が男性のみなのはおそらく、自分に迫ってきたのが男性ばかりだったから。

私の行動は一見ヘテロセクシャル(異性愛者)だけど、実は筋金入りの男性恐怖症。かと言って女性も信用できないので、厳密に言えば極度の人間不信。

でも性別問わず尊敬できる人はいるし、男女以外の性やジェンダーに関心があるので、自分は「パンセクシャル(全ての性別・ジェンダーが性的対象の全性愛)」なんだろうと思っていた。けど、経験もないので断言できなかった。

しかし今回、アロマンティックがあるなら、対極にあるパンロマンティックがあってもいいのではと調べたら、言葉があって嬉しくなった。

すると私は「パンロマンティックなアセクシャル」。性別やジェンダー関係なく恋愛感情を持てると思うが、誰とも性的なことはしたくない汎恋愛な無性愛者。

更に掘り下げると、自分は他者に恋愛感情を持つけど、相手から恋愛感情を向けられたいとは思わないので「リスロマンティック(lithromantic/akoiromantic/apromantic)」でもある。

性的対象にされたり束縛し合ったりするリスクが高まることは嫌な性分とも辻褄が合う。

道理で、性行為は義務と思っても大切とは思えなかったし、男性・女性という括りで自分を捉えられることを窮屈に感じていたし、片思いだった相手の好意を感じると引いてしまっていたのだ。

てな訳で

Lith-Panromantic Asexual, LPAなんちゃって


初めてみる綴りだが、これが私だ!

長いから端折って「アセクシャル」でいいや。

撞着語に混乱したかつての我のようなモロンのためにも。

シンプルにいうと「好きになった人に片想いできれば十分」なんだ。

(酸いも甘いも噛み分けた)おとめ。


そんな感じ✧


まとめ✧

本当は一途に片想いをしていたいだけのに、眼中にない男から性的に侵害される度に自分を適切に守ることができず、そこから逃げるのが遅くなるのは、自分の性的・恋愛的指向を認めることができなかったことにもある気がする。多様性を認めない社会の罪業は深い。

認識するだけで「したくないけど、しなきゃいけない雰囲気だからしてしまう自分」から「したくない人間なのでしないんです」と境界線を張れる本来の自分を取り戻している感覚がある。

これが私にとっての正欲🌈✨


「性欲」でなく「正しい」「欲」。

人は必ずしも「性的」な欲求だけで生きているわけでない。

性的な欲でさえ、各々にとって正しいの欲に駆られている。他人からしたら正しくなくても。

だから正しい欲が具体的にどういうことなのか、ひとり一人が考え、他人と確認し合う必要がある。

己のどんな正しい欲(気持ち)も、それを押し付ける行為は正しくないというだけのことだと私は思う。

原作の著者朝井リョウさんには、この課題について考え、語り合うきっかけをくれたことに感謝。

私の気づきの発表につきあってくれて、ありがとう♡
ございます✧

あなたの感想などもぜひコメントで教えてください。

関連記事





私の自己紹介はこちら✧

渾身の自伝的エッセイも更新中✧



こちらの記事も読まれています










いいなと思ったら応援しよう!

ぬぅまローグ❤️‍🩹pneumalogue
🎁サポートはトラウマケアや、子どもの人権が尊重される社会づくりの研究(本や映像など)・実践(精神治療・執筆)に活用して、noteに還元してゆきます💫ありがとう🤍ございます✧