言ってるそばから
私の記憶では「あのスピード」であったから、私はそのつもりでいたのだけど。
主人が通院のリハビリから帰宅し、私のワン散歩が終わってから主人と「歩行タイム」。二日空けて昨日一緒に歩いてみたら、私が普通のスピードで歩ける、それが終わりまで(この日は約30分)ペースが落ちることなく続いた。
私は大股とは思わないけども、比較的歩幅が広い方だと思っていて、それが保てるスピードだったことに驚いた。こんなに日々、運動できるようになっている…、そう感じた。
通院リハでは対象部分が「硬い」と言われるようで、それは術後の経過の中でのこと、動かした後での筋肉のハリなどを言っているようで、それを聞いているので、自分ではやりづらい所は私が恐る恐るの思いでマッサージしている(笑)
ケガした所は痛い、痛そうと、私の中で強烈に感じてしまうことが拭えずに、聞きながら力を少しずつ強めてなんとかこなす…、あのレントゲン写真が頭に焼き付いてしまいそれが離れないのだと思う。
ただ、きちんと歩いた。
その事が「しっかり運動したな」という、軽い疲労感も感じるほどの歩行だった。
そう感じる「感覚」のことを、正確に言葉にはできない”状態”があり、だけど「ここ」というところで何かいつもと違うその”感じ”を掴むから、はっきりではないけど、そこにあった感覚としてしっかり自分に意識される。
私の腰の痛みに関しては主人も知っているし、その痛みを生むことの元は更年期(ホルモンバランス変動)であろうことも伝え、漢方服用のことも知っている。それにより、現在は大体落ち着いた状態にあることも知っていた。
数日前、掃除機をかけながら「本当にこういう動作もできなかった」と、今スムーズに動けているけども、上半身は殆ど傾ける姿勢が出来なかった時もあったと笑い話をしていた。
今でも腰への注意はずっと継続していて、その動きは大丈夫という範囲でしっかりいつも通り動いていたのだけど、この話をした後、外に干している長座布団を取る時に、”腰”に違和感を感じた。すぐに気をつけようと、腰は曲げずに立てた姿勢を多くしていった。
一番初め(8月)に”腰がおかしい”といった場所とは違う「腰」の痛みを言っているのだけど、かなり低い位置で。骨盤という方が近くて”仙骨”の場所ということが詳細。
言ってるそばから、というタイミングで、そこから今までに平気だった姿勢や、何か力を入れる瞬間にピキッとするので腰が立たなく脱力してしゃがみこんでしまうことしばしば。
普段の痛みはなくても気をつけているのは、この言葉が合っているかは分からない私のこの”中”で感じるものなのだけど、「ゆるい」状態が定期的にあるということ。
骨盤の状態がゆるんだ状態にある時、いつも通りの動作でもしっかりと固定されない中で動いてしまう不安定な状態がある。それは骨なのか、支える筋肉などの衰えなのかは私には分からないけども、「ゆるい状態なんだろう」という様に捉えている。
普段の上半身を立てた状態で痛むことはなく、多少の前傾に痛みを感じる程度なので、再び姿勢に注意をしながらの動作になっている。
犬の散歩時、糞の処理など注意する姿勢は少しあるけども、歩くこと自体はものすごく心地の良い状態で、だから主人との歩行も普通に良いペースで歩き続けた。
以前、歩くことで骨盤がしっかりと固定(安定)された状態になるため、それは大切という様な内容も目にしたと思う。その事もあり、通常なら痛みによって選ぶ”安静”よりも、歩くことで解消へ向かう状態が作られるという事も少し知ったので、それは痛みの内容・強度などを自分の中で観ながらボチボチしっかりと歩きたいと思っている。
あっちが痛いこっちが痛いと言いながら、「若くはないな」とふたりで笑う。こうやって少しずつ、身体に起きている現象や今、自分の身体がどんな感じかという事を少しずつ把握して行っている。
私だけでなく、主人もまた自分の身体に意識を向け、色んな状態を確かめて、その反応から”自分”を確かめる日々が続いている。
・・・
この、「言ってるそばから」というタイミングの時、昔なら、または通常なら、”口に出したらそうなった”という順序でコトを解釈(処理)するのだと思う。私もその様に普通にやって来た。
今は少し違っていて、先日の主人のエピソードじゃないけども、「思ったら(考えたら)そうなった」という並べ方でなく逆の、「そうなる時に口にする」という様に感じる。
これはすぐにそう思うというより、それらを観たから「口にしたのはそういう事が起きることを、どこか身体的に”分かって”いたからかな?」と、逆側から見ている状態が浮かび、その様に表現をしたくなる。
そして更にそれらの結果に、「どちらでも別に良いのだけど」と前に置いた上で…、「起きることが自分の出力と近い」という状態がある、と言えるだろうと言うこと。
”どちらでも良い”その表現部分はどちらも、「現象と自分とを見て」表現をした客観状態(思考)であって、最後のものは客観目線でありながら、思考していない状態を述べた”事実”。
もう一声何か、出そうな感じではあるけども、今日は眠すぎて流れる時間が多すぎるので、それはまた(笑)