愛し方を間違えたとか思わなくていい、その時その時の愛の形を、アップデートしていけばいいだけ。【家族最後の日(植本一子著)】前編
「自分の気持ちにきちんと向き合ってもらって育って来た人って、
少ないよね」
友達にそう言われて、ハッとしました。
会社のために、国のために、皆のために、誰かのために、
自分の時間や命を捧げて、がむしゃらに懸命に生きることが美しいとされていた価値観でできていたこの世界で、
一体どれほどの子供たちが「自分の気持ち」に興味を持ってもらえただろう。
そして、どれほどの子供たちが、「親の気持ち」に興味を持てただろう。
人様に迷惑をかけてはいけない、
出しゃばってはいけない、
皆と仲良くしなくてはいけない、
「自分はどんなことに苦しみ悲しんでいるか」
なんてことに焦点を当てることを良しとされなかった、
もしくはそうしていい(人生の主人公は自分なのに…)という考えすら異端とされていたかもしれない。
「泣かないで」「なんでこんなことも出来ないの?」「なんで言うこと聞けないの?」「どうしてこんな子になっちゃったの?」「いいから言うことを聞きなさい」
じゃなくて、
「何が悲しいの?」「何が不満なの?」「何が怖いの?」「どう思うの?」「どうしたいの?」
って、どれだけの子供が聞いてもらって育ってきたのかな。
家族最後の日(植本一子著)を読みました。
自分の悲しみや苦しみを癒さず向き合わないで生きていると、自然と愛に飢えていくんじゃないかって、思います。
そしてずっと満たされないから、行き場の無い怒りを自分以外の他人にぶつける。
植本さんのお母さんとの描写が、(私には勝手に、です。あくまで私の捉え方です)なんだか昔の自分のささやかな記憶を掘り起こすようで、胸が苦しくなりました。
愛し方は学校で教えてもらえない。
先生でも知らないことなんだから。
でも確かに自分と重なるのは、お母さんに愛されたかった、お母さんとちゃんと話したかった、甘えたかった、何で悲しいか聞いて欲しかった、もっと寄り添って欲しかった、っていう気持ちのように感じました。
(あくまで私が思うことです)
大人になってもなお、それが叶わなかった悔しさや怒りばかりが込み上げてしまう。
人を愛するのは、人生の最難題なんじゃないかって、思います。
でも、どんな形であれ、愛そうとしてきた・していることに変わりはない。
相手に対してちゃんと愛情として届いていなかったかもしれない、でも愛そうと懸命だったことは間違いない。
それは私が愛情として受け取れなかったけど私を愛そうとしてくれた人にとっても、そう。
その時その時の自分なりに、愛そうとしていた自分を、他人を、まず、認める力必要なのでは、と思います。
そしてこれからその愛を、知識をつけ、経験をつけ、どんどんアップデートしていきたい。
その難題に向かっていきたいのです、せっかく生まれてきたんだから。
(いやこれ、本当にしつこいですが、私が勝手にこの本を読んで思うだけのことなので、これが正解でも解説でもなんでもないただのしがないアラサー女の自己満noteです)
文字数が大変なことになりつつあるので後編に続きます…