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お前、スターになりにきたんだろ。

こんにちは。
CMプランナー、ときどき、副業ライターの松田珠実です。

サッポロビールの「丸くなるな、星になれ。」というコピーが好きです。

今日は、わたしにとっての、星の話です。

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わたしの社会人1年目は、控えめに言って「散々なスタート」であった。

1996年。ベビーブーム世代で、就職難の時代。
30社以上から「不採用ハガキ」を受け取っては凹み、やっともらった内定は、たった2つ。

1つは、中古AVの販売会社。
もう1つは、大手広告代理店の子会社で、写真専門の制作会社。
社内には10人ぐらいのカメラマンが在籍していて、小さな撮影スタジオもあった。

学生時代に写真部だったわたしは、迷いなく後者を選んだ。

配属されたのは「暗室部」という、6人の部署。
わたしは「暗室技術者見習い」として採用された。

コピーライターになりたくて、広告や出版、テレビなどマスコミ業界を中心に就職活動をしていたが、わたしがいちばん欲しかったのは、とにかく「手に職をつける」ことだった。

思ってたのとは、ちょっと違う。
けれど、プロの暗室技術者として「ポジフィルムの現像」や「写真の紙焼き」技術の修行をすることはワクワクしたし、毎日会社に行くのが楽しみで仕方なかった。


暗室部には、「紙焼きの神様」と呼ばれる、50代のスター技術者が2人いた。

「紙焼き」とは、フィルムカメラや、インスタントカメラで撮った写真のネガフィルムを引き伸ばし機にセットし、光をあて、印画紙に焼きつける工程である。

大学の写真部上がりのわたしも、自分の作品づくりのために「紙焼き」は何百枚も経験していた。きっと即戦力になれるに違いない。
そう思っていた、入社1日目の自分を叱りたい。


例えば、証明写真のような小さな人物写真でも、スターが「焼く」と、明らかに仕上がりが違う。

女性の肌や髪は、柔らかく見えるように、光をさえぎる小さな道具を使って、繊細なグラデーションをつくる。
シニア世代が、はつらつと見えるように、首やおでこの横じわを、やや薄くする。
目のあたりを仕上げるだけでも、黒目、瞳孔、白目、まつ毛、眉毛と、それぞれの部分に、光を当てる時間を変える。

一つ一つは、言われなければ誰も気づかない、些細な違いだ。
いくら細かくやっても、給料だって変わらない。

朝から夕方まで、一筋の光も刺さない薄暗い暗室で、たった1枚の写真を、ひたすら焼いては捨て、焼いては捨てる。

四六時中、印画紙にうんと目を近づけているから、スターの背中はいつも曲がっている。


スターのとなりで作業を手伝ううち、仕上がったタイミングが、耳でわかるようになった。

思うようにいかないと、小さく舌打ちする。
「これだ!」というものが焼けたときは、解き放たれたように、ふーっと大きく息を吐き出す。


暗室には、小僧のわたしでも知っている、著名なカメラマンも出入りしていた。ふだんは「巨匠」と呼ばれているのに、スターを前にするとペコペコと頭を下げる。

親会社のアートディレクターも、スターの作業が終わるまで、何時間でも丸椅子に座り、背筋を伸ばして待っていた。


スターは、常に指名でいっぱいで、定時に帰れることなど、ほとんどなかった。

「こんなに、毎日指名されるなんてスゴイですね!」と言うと「ああ、またハッピーアワー逃しちゃったよ〜」と照れる。
会社近くの、行きつけの居酒屋に行くことだけが、唯一の息抜き。

2人のスターは「暗室部」から一歩出ると、ただのおじさんみたいだったけど、彼らはわたしにとって、社会人になって初めて見つけた「目指したい星」だった。

わたしのような何もできない小僧ですら、多くの人に頼りにされるスターがいる職場の一員でいられることが、誇らしかった。

スターは、自分の持つ技術を、惜しみなくなんでも見せてくれた。

わたしは、スターから教えてもらった技術を忘れないようにと、いつも小さなメモ帳をポケットに入れていたが、薄暗い「暗室」では、残念ながらメモを取ることはできない。

「こりゃ、手で覚えるしかない」
仕事が終わってからも1人で暗室に残り、終電ギリギリまで機材を借りて、自分の撮った写真で「紙焼き」の練習を重ねた。

今思えば、機材を動かすのにも、現像液などの消耗品にも経費がかかったろうに、スターたちは「なんでも、いつでも使っていいよ」と、おおらかに見守ってくれた。


「俺が持ってる技術は、いくらでも真似していい。だけどこの先、真似だけしていたら、そこで終わる。

世の中のあらゆる写真を見て、何を美しいと思うか、力強いと思うか、繊細だと思うか。そういう『自分だけの目』をつくることが、何より大事。

そして、『自分だけの目』に叶うように、技術を磨く。失敗しても、回り道でもいいから、納得するまで、今の自分が考えられるすべての方法を試す。それを、地道に繰り返していれば、必ずいい技術者になれる」


「暗室部」に新入社員が入ったのは10年ぶり、ということもあり、スターからの「技術を教えよう」という熱量がすごかった。わたしも、1日でも早く応えられるようになりたかった。


相思相愛の、しあわせすぎる「会社員生活」は、たった半年で終わりを迎える。

いつものように、始業30分前に「暗室部」に出勤すると、いつもはギリギリにしか来ないスターや上司の6人全員が揃っていた。しかも、顔が暗い。

何か、とんでもない事態が起こったに違いない。緊張するわたしに、全員が頭を下げた。

「暗室部が、閉鎖されることになりました。せっかく入ってもらって申し訳ないけど、会社もどうなるかわからないし、松田さんはまだ若いから、次の職場を探したほうがいいと思う」

デジタル化の波にあらがえず、アナログな暗室技術はもういらないと、上から判断されたという。「暗室部」は、1年後には完全になくなってしまうと、告げられた。


わたしの大スキな暗室が、なくなる?
なくなったら、わたし、無職よな?家賃は?水道代は払える?

頭の中がぐるぐるして、何も言うことができなかった。
止めようとしても滲んでくる涙を、作業着の袖で拭いて、ただただうなづいた。

悔しくて、悲しくて、寂しくて。
その日は一日中、薄暗い「暗室」の中で、ぐずぐずと泣いた。
その横で、スターたちはいつもと変わらず、黙々と仕事を続けている。

そこで、ハッと気づいた。
50代のスターたちは、これからどうなってしまうんだろう。

「こんな素晴らしい技術があるのに、なんで……」

「小さな部署」が閉鎖されるだけなのに、伝統工芸の火が消えてしまうような一大事に感じて、デジタル化していく世界を呪った。


だけど、いくら泣いても「暗室部閉鎖」の事実は変わらない。
翌日から、仕事探しの日々が始まった。

「閉鎖」は刻一刻と迫ってくる。
とにかく履歴書を送りまくった。
履歴書には「1日も早く、いい職場が見つかるように」と、スターが念をこめて焼いてくれた証明写真を貼った。

時代的に、ただでも人は余っている。
新卒でも、技術者でもない半端モノなわたしを「中途採用」してくれる会社は、なかなか見つからなかった。

「不採用ハガキ」を受け取るたびに、ひとりぼっちの部屋で泣いた。
尊敬するスターの思いもムダにしている気がして、「ごめんなさい」とつぶやくことしかできない無力な自分。


拾ってくれたのは、面接10社目。中堅広告代理店系列の「CM制作会社」だった。

「暗室部閉鎖」の話に加えて、もともとコピーライターになりたかったこと。手に職をつけたいことを話すと、強面の面接官から「CMの制作会社で、お前は何になりたいんだ?」と聞かれた。

きっと正解は、演出家やプロデューサーだったのだと思うが、わたしはとっさに答えた。

「CM界のスターになりたいです」

そのとき、わたしの脳内には、50代の「暗室部のスター」が光っていた。
社会人になって、初めて見つけた「あんな人になりたい」という姿。
何度も指名される仕上がりを100%叩き出す、揺るぎない技術。

「お前、アホか。今までそんなこと言ったヤツに、俺は会ったことがない」

「また落ちた……」と思ったが、強面の面接官は言った。
「どうしてもなりたいなら、ラジオCMのコピーを100本書いてこい。1週間、時間をやる」


その年の冬。わたしは「暗室部」に別れを告げ、CMプランナーとして新しい一歩を踏み出した。

新しい職場は「暗室部」とは違い、自分が「人であるかどうか、わからなくなる」ぐらい厳しい環境で、ヤル気だけはあったわたしも、何度も辞めてしまいたくなった。

一番下っ端からの再スタート。
制作会社におけるCMプランナーの主な仕事は、テレビやラジオCMの「台本」となるアイデアを考え、絵コンテにすることだ。

わたしのできることは、誰よりも多く絵コンテを出すことだった。1回の打ち合わせで、10案なんて当たり前。
自分の中でボツにするアイデアもあるから、少なくとも1回あたり30案は考えていたと思う。

美大出身でもないわたしは、絵コンテの「絵」を描くことにも苦労した。
「これって、何が描いてあるの?」と、毎日ネタにされて笑われる。

1日も早く「伝わる絵」が描けるようになりたくて、先輩がゴミ箱に捨てた絵コンテをこっそり拾い、小学生が漢字練習をするように、毎晩上からなぞって、描きまくった。

ダメでもクソでも、アイデアをひねり出して、とにかくまいにち打席に立つ。
それでも、1案も採用されない日が、半年以上続いた。


しんどすぎて、家に帰るのもおっくう。
終電ダッシュする気力もなく、会社の床で寝ていたわたしの肩に、誰かの手が触れた。眠くて眠くて仕方ないのに、何度も揺り動かしてくる。お願いだから、もう少し寝かせて。

「お前、スターになりに来たんだろ」

寝ぼけ眼の先には、「強面の面接官」だった役員の顔があった。

それは「ほんとうは、コピーライターになりたかった」わたしに、役員がチャンスをくれた瞬間だった。
CMの制作会社ではあり得ない、新聞広告のキャッチコピーを書く仕事を頼まれたのだ。


あれから20年以上が経つ。
初めての職場で出会った、50代の「暗室部のスター」と、わたしも同じ世代になった。

今のわたしは、20代の頃より、ずっと早く絵コンテが描けるようになり、お客さまからオリエンテーションを受ければ、その場で2、3案のアイデアを思いつくことができる。
サッと形にして、すぐにプレゼンすることもできる。

だが「ベテランのCMプランナー」と呼ばれるようになった今だからこそ、思うのだ。
わたしはこのままでいいのか、と。
仕事なんてこんな感じでしょ、という慢心はないのかと。


心が揺れるとき、浮かぶのは「暗室部のスター」の姿。

ベテランになっても、街で見かけたポスターや、新聞。新しい写真集や、展覧会を見にいき「自分だけの目」を養い続ける。

同じような仕事でも、新しいやり方を試しては捨てる。「自分だけの目」に叶うまで、失敗しても、遠回りしても、技術を模索し続ける。

スターが、スターでい続ける限り「終わり」はない。


わたしは、テレビCMの仕事も、「暗室部の仕事」に似ていると思う。

企業や商品の認知を上げたり、社会課題を解決したり、問題を提起する。
そのために、世の中で話題になった広告や、ドラマや映画を見たり、本を読んで「自分だけの目」を磨く。
一番世の中に届くアイデアは何なのか、まいにち練り直す。

決まったアイデアを仕上げる時も、監督やスタッフと何度も議論する。
演技や、微妙なセリフの言い回し。音楽や、効果音。衣装や小道具。キャッチコピーの書体やレイアウト。映像の編集など、一つ一つを選択し、一番いいと思うものを決め続ける。


15秒や30秒で過ぎ去るテレビCMのことなんて、誰も気にしていないだろう。

だけど、「自分だけの目」が曇らないように、いろんなものを見て、同時にアイデアを考える技術を磨きつづける。
アイデアを形にしてくれる、力強いスタッフと協力し、少しでも世の中に届くものになるように、議論を重ねる。

それは、わたしがCMプランナーを辞める日まで続く「地道な繰り返し」だ。

暗室部のスターも、強面の上司も、もうこの世にはいない。
ホンモノの星になって、時に消えそうになるわたしの道を、照らし続ける。



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