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子どもの存在は当たり前ではない

こんにちは

今目の前にあるものは当たり前ではありません。汗水流して頑張って得たものかもしれませんし、喉から手が出るほど欲しくて欲しくて数年を経て手に入れた待望の物かもしれませんし、ご近所さんから厚意でお裾分けでもらったものかもしれませんし、親戚が毎月定期的に送ってくれるものかもしれませんし、子どもが工作で、身の回りのもので作ってくれたものかもしれません。

どれも、ありがとうが詰まったものです。

ですが、どれも、貰ったときから数時間も経つと、見慣れた光景に様変わりしてしまい、もらった時ほどの感動が薄れてしまうのが人間のサガでもあります。

それを当たり前にあるものと無意識のうちに脳はラベル付けします。なぜなら、脳は省エネ体制だからです。あなたのせいではありませんし、子どもがもし、ありがとうを言うのが感情がこもってないなら、脳の仕組みのせいですから子どものせいでもありませんし、間違ってもあなたの育て方のせいでもありません。

ここらきっちり、分けておきましょうね。

親のあなたのせいではありません。

当たり前にある、ことで

心の底から

ありがとうと思っていたのに

簡単にありがとうを言って、

済ませてしまうこともあります。

慣れ、というのはこわいのです。

ある一定期、テストのように

慣れるなよ?的にやってくる

ドキドキ感も必要でしょう。

子どもに正直になることも、

正直にならないことに

慣れてしまうと

正直さを忘れてしまいます。

そして、時すでに遅し、、、

みたいなこともあります。

人生はドラマですね。

目の前にいる子どもは、当たり前ではありません。

当たり前に自分が産んだとはいえ、当たり前ではないんです。いろんな経験を経て今日まで成長を迎えましたが、これも当たり前ではありません。

生きているということが、奇跡なのです。

ここ、伝わりましょうか?

例え今、心を傷める思いに打ちひしがれていても、むかつくほど喧嘩をした翌日であっても、我慢したり頑張ったりして疲弊してたとしても、子どもは授かり物で、その子でなければあなたはあなたとして生きていけなかったのです。親の自分を、親として人して数万倍も数億倍も輝かせてくれる、すごい存在なんです。

私は親ガチャという言葉は好きではなくて、この子なければならなかった…と痛切に思うんです。

息子は冗談が大好きです。

天国にいるとき、お母さんは売れ残っていました(笑)。白髭のおじいさんが早く行きなさいと急かすから、えー、このお母さん、困ってるんだけど、めんどくさそっ、どうしようかな〜、と考えつつも急かされたから、しょうがなくお母さんのボタンを押したんだよ(笑)。

息子は言います。俺はお母さんを幸せにするために来たんだよ、お母さんを、笑顔にするのが俺のすることなの!と。

息子は、発達障害です。しかし私は発達障害という区分を、今から13年前の息子中1の時、私の世界からデリートしました。
その区分が私たち親子にどんなメリットをもたらすかを考えた時、何もないことがわかったからです。

区分は、中高と不登校だった時には支援をもらう上では必要でしたが、生活をしていく上で、つまり息子と接する時には不要だと思いました。その区分は臨機応変に利用すればいいという結論に至りました。

ですから息子は発達障害の振る舞いはしなくなりました。ですから息子は私とは違い、自由にのびのびと、自己効力感を持つ事ができ、自己価値を世間に貢献すべく自己実現を果たしていけるようになりました。

今がどんな状態であっても、どんな状況であっても当たり前ではなく、奇跡の連続で今日を迎えています。

私は自己紹介にあるように、宗教信仰者の毒母育ちで褒められたことのない自己否定の塊でした。信仰をすれば認めてくれますが信仰をしないのであれば認めてはくれませんし屈辱をもたらした人です。

そのような育ちを”条件付き愛情で育った”といい、そのことに気づかず、自分の性格が悪いと自分を責めて、あらゆるシーンで自罰の制限を課して生きていたことに気づくまで、四半世紀を要しました。

親の信仰者として”教義”が正しい、しかし世間一般での正しさの基準とは異なります。どちらを正しいものとしたら良いか迷いました。子供なのにいつも正しさをどちらを選んだらいいのかに悩むのです。

私としては学校の先生やクラスメイトやテレビの世間に合わせたい。
でも母親が怖いので母親に合わせたほうがいい。
頭の中は常に混乱しています。迷いながら生き、選択した答えが間違っていないかとビクビクしながら生きるのは、恐怖に苛まれしんどいものです。

困ったことがあったら親は子を無条件で助け守るものですが、毒母はそうではありませんでした。父は短気だけど無口で母親のいいなりでした。ですから母親と他人の言うことが正解として生きてきました。これを他人軸と言います。

毒母にとっては、私が母親のいうことを聞くことは当たり前のことでした。では、毒母にとって私の存在は、私が息子を奇跡の存在だと思う程、奇跡だったでしょうか?

私たち人間は不完全です。欠点もあります。ですが欠点があるからこその完璧で奇跡的な存在なのです。親の不完全さである欠点を子どもは補います。子どもにも欠点があります。その欠点を親が補います。それがどこなのか明確であろうとなかろうと。


人生は有限です。
私たちはいつでも2つの道が現れて、選択の連続で人生を過ごしています。それぞれ良さがありますが、どちらで行くか?どちらかいいか?

今日も読んでいただきありがとうございました。

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pinkryu
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