「自分の人生」は世界そのものだね。
ぼくらは、自分が生きている場所を「この世界で」と表現することになんの抵抗もない。
事実、ぼくらはこの世界に生かされている。「自分一人で生きていける」なんていうのは何かの冗談だろう。もしも自分以外の誰も世界に存在しなかったとしたら、まずインフラが成り立たない。
水も、電気も、ガスも。何もかもストップする。まもなく、火おこしの方法すら知らないぼくは死んでしまうんじゃないかな。
では、ぼくら人間が生きているこの世界は誰が作ったのか。
ここまできて、神様の存在がどうとかいう教養はぼくにはない。神様の存在を否定することはないが、黙認している。なので神様がいたらどうかぼくは見捨てないでいてほしいな。
ここのところのぼくは「自分探し」のようなことばかり考えて記事を書いている。もしもぼくの「なんのこっちゃ日記」を読んでくれていたなら、そろそろうんざりしているかもしれない。
ぼく自身でもいつからそんなことを書いていて、どのくらい同じようなことを書いているのかも記憶にない。きっと神様はすべてお見通しだろうけど。
日記を書きながらも、ずっとぼくは迷走している気分だ。いくら日記に書いていても自分のことに対しての明確な答えに行きつかないのだ。
ぼくを含めた人間というのは、常に「生きる意味」を探しているんじゃないか。
あなたはどうだろう。
ふと「生きる意味」を考えると、自分が何を好きで、自分とはなんなのかという疑問にいつもぶち当たる。
きっと、人間だからだ。
人間だから「生きる意味」なんてものを探したくなる。
人間はめんどくさい。心底めんどくさい。
いや、めんどくせぇ。実にめんどくせぇよ。
仮にぼくが犬や猫、プレーリードッグやミーアキャットのような動物であったなら、「生きる」という一つの目的を何も考えずひたすらにまっとうすればよかったはずなのだ。
本来は、生き物すべてに生きることに目的なんかいらない。生まれたからには生きていたい。命の危険にさらされたら戦い、あるいは逃げ延び、生きる道を選ぶ。
ライオンの狩りに狙われたシマウマも、怪我を負って狩りのできなくなったライオンも、なんとかして生きようとする。それこそが彼ら動物の生きる目的だ。
人間はそれを生存本能と呼ぶ。
翻って人間はというと、生存本能だけではこの世界では生きていけない。
人間には大きな社会がある。
「世界」という途方もない大きさの生きるステージの中に、さらにめんどくせぇステージが乗っかっている。
その社会という名のステージの上で窮屈に生きているのが人間だ。
社会で生きていくには生存本能以外の目的が要る。それが自分の生きる意味だ。
自分は何が好きで、何がしたくて、何がしたくないのか?
ただ生きるだけならば、そんなことを考える必要もない。
ただ酸素を吸って、二酸化炭素を吐いて、お腹が空いたら何かを食べれば生きていける。あと忘れがちだけど、排泄も大事。
自分が生きる上で求める「生きる意味」は、誰が求めているのか?
誰も求めちゃいない。
ぼくやあなたが、自分自身の生きる意味を見つけたとしても、大半の人には無関係なこと。
だからそんなことをムキになって探したところで、きっと誰かに褒められるわけでもないし、誰かを幸せにするということでもないんだろう。
でも、ぼくは自分が誰で、自分がどんな存在なのかが知りたい。もっと言うと、自分がどういう人間なのかが全然よくわからないのだ。
たぶん、自分が誰でどんな人間なのかを知っている人の人生は明るい。
辛い思いをしたり、苦労していたとしても、自分という存在を認めている人というのは、自分の「労わり方」も知っているだろうから立ち直る力もある。
そういう意味で明るいとぼくは思うのだ。
「自分」を持っている人は、世界がどうなろうとも自分のやりたいことをやって生きていけるだろう。極論、世界がどうなろうと関係ないんだと思う。
自分のことをよく知っていて、人生を生きられる人というのは、自分の世界を持っているとも言える。
むしろ、それこそがその人の世界だ。
この世界を創造したのが神様だったとしても、命を授かって生まれてきてからの世界は自分のもの。自分がどう生きるかでその世界が大きく変わっていくのだ。
ぼくは生まれてからすでに40年が経ったけれど、いまだに自分のことを探している。ぼくには子供も居て、その子供もすでに10年以上も生きたというのに、一向に自分のことはわからずじまいだ。
こうしてnoteを書いているのが唯一の救いとも言えるが、これにしたって自分の中にある「戸惑い」を記しているに過ぎない。
答えはいつになったら見つかるんだろう。
ぼくの世界は、まだまだ神様に主導権を握られたままだね。
じゃあ、またね。
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