意味なんて考えるだけムダ、そんなことよりも踊れ。
ニーチェは言った。
『踊れ!』
脳科学者の茂木健一郎さんがYoutubeで言っていたこと。
こんばんは、ぴこつです。
いつも、生きること、自分がやっていること、してきたことの意味を考える。考えて考えて、考えまくって頭でっかちになっていく。
そうやって自分のやっていることに疑問を抱えてはやめてしまうんだよね。
「自分はいったいなんのためにこんなことをしているんだろう?」
ぼくは、こんなことばっかり考えて生きている。
考えたって仕方のないこと。考えたところで答えなんか出ないことなのに、意味がないと思ってやめたくなる。
いや、答えが出ないことだから絶望するのか。
じゃあ逆に意味のあることってどんなことなんだろうね?
自分が生きている中で、自分じゃなくてもいいや。この世界に生きてる人で「本当に意味のあること」をしている人って誰なんだろう?どんなことなんだろう?
もしかしたら、そこにも正解なんてないのかもしれない。
「意味」とは何なのか?「意味」の意味を考えるって、どんな無限ループなんだ。
なんのこっちゃ、だな。ぼくのこの日記も「なんのこっちゃ日記」と謳っているけれど、それ以上になんのこっちゃだ。
なんのこっちゃのなんのこっちゃによる、なんのこっちゃな意味のない記事。
端的に「意味不明」と言えばよかったか。
だからというわけではないけれど、人生や自分のやっていることに意味を問うてもムダ。そもそも「意味」の定義だってあいまいなのだ。
意味を考えることこそが、自分がやっていることを止めるための口実なんじゃないかとも思えてくる。
意味を考えるからこそやめたくなるし、やめるために意味を考えようとしている。
そんなことを言ったらぼくのこの記事にだって意味はない。こんな記事を読んだところで誰かが喜んでくれることはないだろう。価値を感じてれるとも思えない。
だけど、ぼくは書いている。
そして、読んでくれているあなたがいる。
貴重な人生の時間を費やして、ぼくは書き、あなたは読んでくれているのだ。
それ以上になにが要るというのか。
記事はぼくの思考であり、ぼくの意見。
それがどこかの誰かに見てもらえているということで、すでに意味があると思っておけばいいんだよね、きっと。
これまでの人生でやってきたことは、ほとんどが中途半端で終わっている。
思い返すと「悔いなくやりきった」と思えたことはないんじゃないかな。
どこかで意味を問い、意味がないと決め込んでやめてしまっている。
実は、そういう自分の性格もわかっている。わかっているんだけど、どうしてもそういう「意味追求グセ」は抜けない。
意味を問う行為は人生哲学みたいな話なんだろうけど、ぼくのポンコツの頭で考えたところで答えなんか出やしない。そんなことを考えているだけで、あっという間に人生は終わる。
このままでは、死ぬ間際になってもぼくは「自分のこれまでの人生に意味はあったんだろうか?」って考えて入そうな気がする。いや、きっと考えているだろうね。
意味を問うまでもなく、やり始めたことをただひたすらにやってみる。意味があるとかないとかよりも、自分がそこに時間を使って何かしらの高揚感が得られているならそれでいい。
主体的に時間を使えているのなら、それを続けてみればいい。
もしも価値が生まれるとしたら、もっともっと先のこと。
誰かの目を気にすることなく、踊るように何かに打ち込める人間に、ぼくもなりたいな。
じゃあ、またね。
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