そもそも書いていなかったと考えれば
noteで日記的なものを書こうと思いつつも、書けていない現状に自己嫌悪に陥りそうにもなる。
自分の頭の整理を目的に、何か有益なことを書く必要はないと理解はしていてもなかなか書けない。
書けないというよりは、むしろ「書く時間を確保できていない」という表現の方が正しいかもしれない。
一日の中であった些細な出来事をボーッと思い出しながら、気にとまったことを深掘りする時間。
つまり「余白」の設計がくずれてしまっているのだろう。
なので、「余白時間」の設計を見直していこうと思う。
そんな感じで「余白時間」について考えていたら、「そもそも・・・」ということに気がついた。
最近は記事が月に5記事くらいしか書けていない。
「昔に比べて書けていないな」とネガティブに捉えてしまっていたのだが、
見方を変えると「過去には書いていた」という事実があるから「書けていない」と感じてしまうのだということに気がついた。
もし、じぶんが記事を一度も書いたことがない人間だとして考えてみてほしい。
「1ヶ月に5記事ほど記事を書いてます」
と周りの人に公表したらどんな反応が返ってくるだろうか。
おそらくだが、
「5記事も書けるなんてすごい」
「文章なんて書いたことがないわー」このような称賛の反応が返ってくるだろう。
それくらい、文章を書いている人は少ないように感じる。
だから、1ヶ月に5記事でもいいではないか。
本を読んで気になったところをメモする。
そして、そのメモを自分の言葉でつなげて文章にしている人は明らかに少数派だろうと思う。
「毎月5記事しか書けていない」か、「毎月5記事は書いている」と捉えるかによって、じぶんに与える影響がまるっきり変わってくるだろう。
どちらに軸を置いて考えるかにより、繰り出される思考は全く別のものになる。
今後ネガティブになりそうになったら、
「そもそも〇〇してなかったら、続けられていないと悩むことはないよね」
と少しだけ自分をホメて甘やかしてあげたいと思う。
「時々なら、甘やかしもいいんじゃないかな」
それが自己啓発になるんだと思うのならば。