【おはなし】 どこかの屋上にて
カサに跳ね返る雫の音が雨が降っていることを告げ、ヘッドライトを消灯して走り去る車が遅くない時間帯を示している。道路の脇道で小刻みに震えている小さな物体にカメラが近寄る。
遠くから見ていると何か分からなかった物体は、レンズが近づくにつれて、ずぶ濡れの子猫であることが判明した。
毛むくじゃらの右手を伸ばして子猫を捕獲した何者かは、左手に持っているカメラに向かってなにかを話している。
場面は切り替わり、バスタオルの中で全身の水滴を拭き取られている猫の姿が映し出される。左手も毛むくじゃらの何者かは、バスタオルで猫を包み込むように大きな手で乾かしていく。
背景に流れるスローテンポなピアノの音色は、子猫をピンチから救出した何者かの勇ましさを控えめに讃えている。
「どう思う?」
一時停止ボタンを押した先輩が僕にたずねた。
「子猫が助けられてホッとしました」僕は画面から顔を上げて答えた。
「キミは、ほんとうに、そう思うのか?」
「はい。僕は、素直に、そう思いました」
「・・・クレイジーだな」
「はい?」
「予言してやるよ。この動画を最後まで見終わったキミは、キャットフードの購入ボタンをクリックするだろう」
「そこまで僕は、おひとよしじゃない」
「明日からしばらくの間、キミの昼めしはキャットフードさ」
「えっ?」
「だが、もし・・・」
先輩はもったいぶって時間をあける。
「もし、なんです?」
僕は気になって先輩にくいつく。
「もしもキミがこれを飲んだ状態で動画を見終わったとする」
「ええ」
「そのときのキミは、キャットフードの購入ボタンを押さないだろう」
「へー。その飲み物は、いったい何なんです?」
「100年後の人類がドラッグと呼んでいるシロモノさ」
「それって、そうとうヤバイ飲み物なんですね」
「ああ。今の時代だからこそ、許されているシロモノだな」
「じゃあ、今のうちに味わえる僕たちはラッキーですね」
「まあ、そうとも言えるな」
「じゃあ、それ、飲みに行きましょうよ」
「今からは無理だな」
「どうしてです?」
「そういうルールだからさ」
「つまり、今は飲めないもの、ってことですか?」
「そのとおり」
「もしかして、ですけど・・・」
僕は少しだけ考えてみる。考えなくても答えがわかっているけど、先輩みたいにじらしたい。
先輩はフェンスにもたれてタバコをふかしながら道ゆく人たちを眺めている。空の色は薄暗く、重たい雲が冷めた視線で地上を見下ろしている。
「ヒントをください」
僕は100円玉を自動販売機に入れて先輩に質問した。
「黄色」先輩はそっけなく答える。
「赤色もありますよね?」僕は質問をかさねる。
「透明もある」
「茶色も青もありますよね」
「緑だってあるさ」
「逆に、無い色を探す方が難しそうですね」
「まさにキミの言う通りさ」
「先輩が吸ってるそれだって、100年後にはドラッグ認定されてるんじゃないですか?」
「確実にそうだろうな」
「じゃあ・・・」と僕が言いかけたところで雨が降ってきた。
「そろそろ、戻ろうか」
「ええ」
先輩は灰皿の上でタバコを押し消し、僕は飲み終えた缶コーヒーをゴミ箱に捨てた。
僕たちは隣同士に並んで階段を降りて行く。
定時まではあと3時間も残っている。連休明けの今日は、急な残業の可能性も300%まで膨れ上がっている。
「もうひと踏ん張り、がんばりますか」
僕がなるべく明るい声を出すと
「俺の分もキミがやってくれると助かる」
先輩はなるべく暗い声で答えた。
階段を降りて行くふたりの背後では、楽園へと続く入り口が音もなく閉じていった。
おしまい