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【おはなし】 たんぽぽ担当

妹が作ってくれた夕食をふたりで食べている夜。僕は以前から考えていたことを彼女に伝えることにした。

「来週から僕は、たんぽぽになるよ」

肉じゃがに入っているにんじんを避けながら、牛肉でしらたきを包んでいる妹は、ちょうど2秒間だけ動きを止めた。

「じゃあわたしは、来週から1人分の食事を作ればいいのね?」

「そういうことになる」

「じゃあわたしは、芳醇な香りのする兄さんの靴下とパンツも洗わなくて済むのね?」

「そうだな」

「それだったら、わたしにはメリット以外には何もないわね」

ごはんの上に牛肉を乗せてくちもとに運び、もぐもぐと咀嚼しながら彼女はまだ別の何かを考えているように見える。

僕は味噌汁をすすりお漬物をポリポリとかみ、ビールの空き缶を見つめながら、彼女が何かしゃべりだすのを待っている。

僕たちがふたりで暮らし始めたのは、妻が出て行ったのがきっかけだった。2人で組んだローンの返済は僕がひとりで請け負ったので生活は苦しくなったけど、大学生になった妹がパチンコ屋のバイトで稼いだお金の一部を支払うことで僕たちの新しいふたり暮らしがはじまったのだ。

「もうすぐ2年かしら」

咀嚼を終えてくちのなかがすっきりした妹が話し始めた。

「ああ、おまえが僕の家に転がり込んできたのが春先だったな」

「おまえって呼ばないでって言ってるでしょ!」

「ごめん、ごめん」

「でも、それも今週でおしまいと思えば、いつかは懐かしくなるのかしら」

「そうかもね」

「いつも思うんだけど、兄さんって突然へんなことを言い出すわよね。どうしてたんぽぽなのか説明くらいはしてくれるんでしょうね」

「もちろん。ちょっと長くなるけど・・・」

「ええ、いつものパターンね」

お箸を置いてから僕は話し始めた。




長い話をあいづちを打ちながら聴き終えた妹は、食べ終えた食器を片付け始めた。

僕は水道の蛇口をひねりスポンジに洗剤をつけながら食器を洗っていく。

妹はテーブルをふきんで拭いてから食後のコーヒーを飲む準備を始めた。お水の入ったやかんを僕から受け取ると、彼女はコンロの上にやかんを置いた状態でぽつぽつと話し始めた。

「兄さんの長い話を要約すると・・・」

彼女はなんでも短くまとめたがる癖がある。特に僕の長い話を要約することに対しては妥協を許さない。きっと、恋人にすると嫌がられるから僕で発散しているのだろう。

「つまり3つの要素にまとめることができるわね」

「よろしく頼むよ」

自分でしゃべっておいて話の中身がこんがらがる僕はいつも妹に助けられている。

「いち。前任者が任期を終えた。

 に。誰かがその穴を埋めなきゃいけない。

 さん。最近読んだ小説にも影響されている」

「だいたいそんなところかも」

「でもどうしてたんぽぽなのかしら。わたしたちの住む世界を外側から観察するのが任務だったら、ネコとかイヌとかスズメでもいいわけでしょ?」

「まず、ネコは人気なんだ」

「空きがなかったのね」

「次に、イヌはイメージが悪い」

「国家権力のイヌ、とか言われたりしてね」

「最後のスズメは、カラスにいじめられる」

「身体の大きさでは勝てないものね」

「その点、たんぽぽは競争率も低いんだ」

「とお〜っても、不人気そうですもの」

「そのとおり。人事担当者もそう言ってた」

「靴の裏で踏まれても文句さえ聞いてもらえないのに?」

「ああ、いいんだ」

「ふうん。やっぱり兄さんってマゾヒストなのね」

「否定はしない」

「いいわ。すべて理解しました」

僕たちはコーヒーとチョコレートをはさんで再びテーブルで向かい合った。

「一度でいいからやってみたかったことがあるの。そういう場面ってなかなか訪れなかったから半分あきらめていたんだけど。今それをしてもいいかしら?」

「どうぞ」

「最後の晩餐は何がいいかしら?」

「ああ、映画でよくあるやつか」

「兄さんの大好物のすき焼きかしら。それとも縁起を担いでトンカツかしら。はたまた、身体を慣らすために雨水にするとか」

「う〜ん。勝ち負けを競うわけじゃないからトンカツじゃなくてもいいかも」

「ちがうわよ」

「えっ?」

「わたしがトンカツを選んだのは、入学試験や昇進試験に合格、つまり勝利するためじゃないのよ」

「じゃあ、なに?」

「勝利のカツじゃなくって、気合いのカツを入れるためよ」

「ああ、そっちね。悪くないかも」

「じゃあ、最後の晩餐はトンカツにしましょう。とびっきりの豪華なお肉を準備してもらわないといけないわね」

「肉屋のゲンさんにまたお世話になるな」

「そうよ。兄さんからもお礼を伝えてほしいくらいよ」

「そうだな。たんぽぽになってから会いにいくのもありかも」

「なにいってるのよ。たんぽぽが歩けるわけないでしょ」

「そりゃそうさ。歩けるわけがない」

「もう、酔ってるのね」

「ちょっとだけね」

「先にお風呂に入ってらっしゃいよ」

「ああ、そうするよ」

僕はコーヒーを飲み干してから少しだけふらつく足元でお風呂場に向かった。




「兄さん、だいじょうぶ? 湯船の中でのぼせてない? 開けるわよ」

妹が僕を呼びお風呂場の扉を開けた。

「あら、いないじゃない。もうあがったのかしら」

お風呂場の中の空気と部屋の中の空気が混じり合い、僕の身体はふわふわと宙を舞いながらリビングへと入っていく。食卓の上には妹のコーヒーカップと、新商品の塩キャラメル味のポテチの空き袋が見える。僕は自分の椅子に着地すると足にちからを込めて根を伸ばした。

ここから見える景色はテーブルの裏側。洋服の取扱注意みたいなシールが貼られているのが見える。その奥にはちょっとした荷物が置けるこたつの中みたいな出っ張りがある。なるほど。ここに妹はお菓子を隠していたんだな。

お風呂場から妹の鼻歌が聞こえてきた。僕は眠たくなってきたので目を閉じた。

しばらくすると、お風呂から上がってきた妹が僕を探している声が聞こえた。だけど僕はもう返事をすることができない。木製の椅子に根を張った僕は、たんぽぽになってしまった。

「兄さんはどこに行ったのかしら。女王様のお店に行って最後のあいさつをしてるのかしら。ドエムでマゾヒストの兄さん。最後の晩餐には間に合うように帰ってきてよね」




「チーン」

「タッ タッ タッ」

トースターがパンを焼き終え、妹がテーブルに運んでくる足音が聞こえる。

「兄さんはいないみたいだし、今日はこっちに座ろうかしら」

妹が僕の椅子を引く音が聞こえる。

「あら、こんなところに・・・」

僕の身体をやさしく包みあげる彼女のぬくもりを感じる。

「兄さん。あなたもう、たんぽぽになっちゃったのね」

(そうなんだよ、まいっちゃうよな)僕の出す声は彼女には聞こえていないみたいだ。

「でもね、兄さん。これはたんぽぽじゃなくって、ええっと、なんていうんだっけ? 白くてふわふわした毛を飛ばしていく、たんぽぽの親戚みたいな子」

ん? 僕は間違えたのかな。それとも人事担当者が間違えたのかな。

「まあいいわ。風に揺られて外の警備を担当しなさい」

窓を開けた妹は、僕の頭に「ふ〜っ」と息を吹きかけた。



風に揺られてさまよいながら、僕は空をゆらゆらと泳いでいく。

ランドセルを背負い並んで歩いている子供たちが見える。年上の女の子は年下の男の子の手をつなぎ、なにやら笑顔で話している。「学校はね、じつは楽しいところなんだよ」と男の子をはげましているのかもしれない。

公園でゲートボールをしながらおばあさんを口説いているおじいさんが見える。スポーツの概念の解釈がふたりの間で食い違っているように僕には見えてしまうぞ。

カラスが飛んできて空を舞う僕の身体を飲み込んだ。光は見えない真っ暗な世界。この先に進むとお尻の方から・・・。このチャンネルはしばらくオフにしよう。

「あぁ、バカな兄さん」

妹の声が遠くで聞こえる。

「なにもあなたが寒い想いをしなくてもいいのに。なにもあなたが痛い想いをしなくてもいいのに。なにもあなたが世界のスミッコを担当しなくてもいいのに。あぁ、バカな兄さん。どうせ担当者のクチグルマにまんまと乗せられたことでしょう。責任感とか使命とか、存在理由という言葉を相手の都合のいいように刷り込まれたことでしょう。今頃その担当者は面倒な不人気場所に兄さんを派遣したことで上役から褒美の品を受け取っていることでしょう。なにも兄さんが担当しなくてもいいのに。あぁ、バカで、無知で、おひとよしの兄さん。最後の晩餐は一緒にトンカツを食べると約束したのに。ちゃんと肉屋のゲンさんにお礼を伝えに行くんですよ。ちゃんと別れた奥さんにありがとうって伝えに行くんですよ。そしてどこかの土に到着したら、そこで根を張って再びふわふわの羽を伸ばすのですよ。あぁ、バカな兄さん。さようなら。わたしはあなたと違う世界を生きるでしょう」

妹は僕の羽を空中に飛ばし終えると、椅子の上に僕の身体をそおっと乗せてくれた。それから階段を登って自分の部屋で着替えを済ませると、講義に遅れないように学校に向かって歩いて行った。

その姿を僕の羽が見ていた。




おしまい