実用書的エッセイ | 制約条件と書くこと・話すこと
(1)
たとえば、英語がとても上手な友人があなたのとなりにいたとする。あなたはその友人の話す英語を聞いたことがない。
「なんでもいいからさぁ、なにか英語を話してみてよ」
簡単なあいさつ程度の英語ならとっさに出てくるだろうけれど、いきなり「なんでもいいから英語を話して!」なんて言われたら、その友人はきっと戸惑うことだろう。
私だって、「なんでもいいから、日本語を話してみてよ」なんて言われたら、「なにを話せばいいの?」と問い返すことしかできないだろう。
「なにか思い出を話してみて」と問われたほうがまだ話しやすい。あるいはもっと突っ込んで、「中学校の部活の思い出を聞かせてください」と言われたほうが、きっと話しやすい。
何の制約もないほうが自由度があるから、話したり書いたりしやすいように思われることがあるが、個別具体的なことのほうが書きやすい・話しやすいなんてことはないだろうか?
(2)
ところで、具体的なことであっても、プライベートなことやセンシティブなことは、書けることは書けるけれども、公にするのは気が引けたりする。
そういったものは、SNSにあげるのではなく、日記かなにかに書いておけばいいだろう。
(3)
よく「書くことがない」「ネタがない」という嘆き?の声を読むことがある。そのようなときは、文字通り「ネタがない」というよりも、
①「プライベート過ぎる」「反論がこわい」「当たり前過ぎる」
②「的が絞りにくい」「まとまらない」
③「わからないことが多い」「詳しくは知らない」
という3つのケースがあるように思われる。いずれの場合も「制約条件」をうまく設定することができないことに起因するのではないだろうか?
順を追って考えてみよう!
(4)
①「プライベート過ぎる」「反論がこわい」「当たり前過ぎる」
「プライベート過ぎる」ならば、「個人名を挙げない」とか、エッセイではなく、「抽象化して小説仕立てにする」という制約条件を加えれば書きやすくなる。
「反論がこわい」ならば、「自分の前提とする考えを明確にする」ことがまず必要になるだろう。多くの反論は、前提が異なることに起因することが多い。前提が異なれば、結論が異なってくるのは自明の理だろう。
「当たり前過ぎるから書けない」という記事もいくつか読んだことがある。これに関しては以前どこかで書いたことがあるが、心配する必要はまったくない。あなたにとっての当たり前は、私にとっての当たり前ではないことがほとんどだからだ。迷わず、自分の言葉で語ったほうがよい。
②「的が絞りにくい」「まとまらない」
このような場合には、「デカルト的」に考えてみるとよい。複雑なものを複雑なまま考えようとするから、書けないのだ。
まず、論点を細分化して、書き出してみることから始めよう。複雑に絡み合う10の要素があれば、それらを1つ1つばらしていくことが大切だ。そして10の要素を無理に1つの記事にまとめようとせず、その1つ1つを1つの記事に落としこんでいけばいいだろう。
③「わからないことが多い」「詳しくは知らない」
これはよくあること。わからないことが多いのならば、とりあえず「分かること」だけ書けばよい。その上で、どこがどうわからないのか?、ということを疑問として列挙するのもいいだろう。
もちろん調べてみれば、理解できることもあるが、なにも「答えを書くこと」だけが記事ではない。というよりもむしろ、「いい問いを発すること」が読者の知的好奇心を刺激することが多い。答えが書いてあると、その場で納得してしまって、すぐに忘れてしまうということもある。
(5)
思うことをつらつらと書いてみた。
以前にも、記事の書き方について書いたことがある。こちらも合わせて、何らかの参考にしてほしい。
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