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読書感想文📖「雪のひとひら」と「日本的霊性」
先日、ボール・ギャリコ(作)「雪のひとひら」の読書感想文を書きました。
この物語は、空高いところで生まれた「雪のひとひら」という女性が、地上に降り、「水のしずく」という男性と1つになり、いつの間にか別れて、再び上空にのぼっていき消えるという物語です。
私が「雪のひとひら」を読み終えたとき、なぜかとても仏教的なものを感じました。ギャリコの作品自体、読むのが初めてだったのに「懐かしい」と思いました。
ギャリコの作品を読みながら思い浮かべたのは、鈴木大拙の「日本的霊性」(岩波文庫)です。
少し長くなりますが、もしギャリコの「雪のひとひら」を読んだことがある方でしたら、「日本的霊性」の次の引用部分と「雪のひとひら」の類似性に共感していただけるかも(と思います)。
以下、「日本的霊性」の中から、私が「ギャリコっぽい」と思った箇所を引用します。キーワードは「無限大円環性」と「超個」です。
鈴木大拙「日本的霊性」(岩波文庫)より
(1)無限大円環性
前掲書p133より引用。
⚠️読みやすさを考えて、適宜改行します。また、文中の太字は私によるものです。
直線的時間性で歴史的記憶を解釈しようとすると、その中からは現在と未来とが出てこないのである、過去さえも限られる。そうして歴史は創造性を失って硬化してしまう。霊性もそのはたらきを出しようがなくなる。
時間を直線的に考えると、すべてが幾何学的図式になって、天地の化育性なるものがなくなる。生きるということは、長い線を引くことではない。何千年か何万年か、ないし何億年でもかまわないが、始めのある生き方はまた終りがなくてはならぬ。これは有限な直線ではいけない。実際は、直線はみな有限である。有限であるから直線なのである。無限を或る点で切ってみるから、そのあいだだけが直線なのである。
無限は直線で有り得ない。ここから始まると言えば、ここで終るということが既にそのとき定められている。そんな限定をうけるものは、生きていない。
生はどうしても無限でなくてはならぬ。即ち直線であってはならぬ。生は円環である。中心のない、或いはどこでもが中心である円環である。この生の無限大円環性は霊性でないと直覚できないのである。その他の緒直覚はどこかで限定を受けなければならぬように出来ている。
(2) 超個
前掲書pp.136-138より引用。
適宜改行します。また、太字は私によるものです。
霊性的直覚が無限大円環性であるから、その中心が到るところにあると言われ、「親鸞一人がためなりけり」という一人の意味が看取せられるだろう。繰返して言うまでもないと思うが、この一人は個己的一人ではないのである。そう考えられたら、毫釐の差は天地懸隔で取返しのつかぬ錯誤を生ずる。一人は超個己的一人で、中心のない無限大円環の中心を形成するところのものである。霊性的自覚は、この中心のない中心を認得するときに成立する。そのとき「天上天下唯我独尊」の一人者となるのである。それが真実の個己----超個己の自己限定である。
個己でない個己という矛盾が即ち最も具体的事実として認得せられ、この存在が究竟性をもってくるのである。親鸞の日本的霊性は、一方にありては、伝統的に法然によりて刺戟せられながら、また他方にありては、それが大地との生ける接触によりて、本当にみずからもまた生けるものとしての直覚が成立したのである。
超個の個としての一人は孤独性をもっている、絶対に孤独であると言わなければならぬ。「寥々たる天地の間、独立、望み何ぞ極まらん」と言われるように、中心のない無限大の円環内に一人という中心を認得することの意味は、こんな矛盾的論理にほかならぬのである。それで孤独は絶対に孤独であって、しかも「春山は乱青を畳み 春水は虚碧を漾わす」のである。絶対の孤独の一人はかくの如き万差の個多そのものなのである。
かくの如き可能なる所以は、我らのいずれもが無限大の円環の中に、中心のない中心を占めて、そこで起臥しているという最も具体的事実が儼存するからである。これが霊性的直覚である。
霊性的自覚は個己の上における最後の経験であるから、一人性をもっているのである。ただの論理から言うとそれはソリプシズム(solipsism 独我論)だと考えられよう。そう言えばそうなのである。ソリプチックだというところに既に然らざるものが現われているので、ソリプシズムは元来ただの論理でも成立せぬのである。
しかしそれはそれとして、霊性的直覚の世界では、この直覚そのもののほかはすべて第二義性をもつことになっている。即ち個己的直接性を帯びないものはいずれも古びたものとして取扱われるのである。
他人の記録の注釈または解釈に憂身を窶すことはしないのである。それは古着であり、買い置きであり、人伝てであり、報告であるから、そのものとしては価値のないものである。
霊性はいつも一人であり、覿面であり、赤裸々であるから、古着の世界に起臥することを嫌う。個霊は超個霊と直截的な交渉を開始する、いかなる場合でも媒介者を容れぬ。それでその直覚は、超個霊の個霊化でなくてはならぬ。個霊は個霊であってしかも個霊でない。それ故に個即超個、超個即個でなければならぬ。即心即仏は非心非仏で、非心非仏は即心即仏であると言うは、この故にほかならない。
霊性的直覚は、最も具体的であるから最も個己的である、そしてその故にまた最も普遍的である。それは一人の直覚である。周辺のない円環の中に、中心のない中心を占めていることの自覚である。これが親鸞の日本的霊性によりて表現せられると、「弥陀の本願はただ親鸞一人がためなりけり」ということになる。
絶対愛の中に摂取せられるときは、善も悪もそのままにしておくのである。二元的・歴史的・直線的生活は、そのままで否定せられないでよいのである。否定即肯定、肯定即否定という矛盾の論理が、絶対愛即ち無辺の大悲という面にもまたあてはめられて妥当なのである。ただ日本的霊性はこの論理を論理として見ないで、事実の直覚であると見ていることを忘れてはならぬ。
ギャリコ「雪のひとひら」再論
この前、感想文を書いたばかりなので、ザッと書くにとどめる。
「雪のひとひら」という女性は空のどこかで生まれて空のどこかに戻るという時間を生きた。あたかも、春に咲いて散った桜が、また次の年、めぐり巡ってまた花を咲かせるという「円環的な生」を生きているかのようだ。
ギャリコの物語の登場人物の「雪のひとひら」は、消えても、いずれまた「雪のひとひら」になるのではないだろうか?そして、また恋をする。別れて、天に戻り、消える。そしてまた現れる。
ギャリコの「雪のひとひら」は物語だから、空で生まれて空で消える、というところで終わっているが、私には循環している時間性があるように感じた。
その意味で、大拙の言う「無限大円環性」という時間性と共通するところがあるように思うのだ。
「雪のひとひら」と「水のしずく」は、出会った瞬間に「一人」となった。しかし、「あなた」と「私」という区別はある。しかし、出会った瞬間に1つにとけあっている。「雪のひとひら」という個己と、「水のしずく」という個己とを残しつつ、超個として1つの存在である。
「雪のひとひら+水のしずく」という存在の在り方と「超個」とが酷似しているのではないか、と私は思った。
牽強付会と言われるかもしれないが、これが私の率直な感想である。
後書き
我ながら分かりにくい記事になりました。
「雪のひとひら」も「日本的霊性」も名著です。実際に手にとってお読みください。
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