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読書 | 経済成長主義への訣別
佐伯啓思(著)「経済成長主義への訣別」(新潮選書)を読んで思ったことを書きます。
この本の中で、佐伯先生は「当たり前のことばかり書いて恥ずかしいくらいだ」という趣旨のことをおっしゃっています。
多くの経済学者は、GDPが何%伸びるのかという指標をもって、国の豊かさの尺度としている場合が多いですね。しかしながら、経済成長率というのは、そもそも怪しい尺度です。
佐伯先生は分かりやすい例を挙げています。例えば、新車を1台購入する場合と、新しい親友と知り合う場合を対照してみましょう。
あなたが新車を1台購入することは経済成長率を押し上げる効果がありますが、あなたと新たな親友との出会いはまったく経済成長率を押し上げる効果はありません。
価値観の違いはあるでしょうけれども、車の購入より親友との出会いにかけがえのない幸福感を見いだす人も多いことでしょう。
従来の経済学では「より多くの財やサービスを保有できることが経済発展だ」と考えられてきました。しかし、とくに東日本大震災以降は「ミニマリスト」を目指す人が増えてきましたね。
幸せになるために溜め込んだモノに押し潰されそうになった経験を持った人の中には、「必要最小限のモノだけでいい」と考えるようになった人が多いようです。
おそらく経済学を最初に学ぶ時には誰しも「経済成長=幸福」という考え方には、疑問をもっていたはずです。経済成長というのは、あくまでも「貨幣的な評価」に過ぎません。
もちろん、貨幣的な評価を無視した経済政策ではいけないのですが、「経済成長がすべてだ!」という考え方に縛られている人が多いでしょうね。経済学で貨幣的な評価基準で経済を考えるのは、単にそのほうが「扱い方やすい」という方便に過ぎません。
簡単に言えば、新たな付加価値の合計がGDP(国内総生産)ですが、新たな付加価値を生まない循環型の経済が成長のある経済より劣っているとは言えません。
アダム・スミス「国富論」にはよく「natural course of things」(自然の成り行き)という言葉が登場します。いわく、財を投下するなら、自分の家のまわりから始めるのが自然の成り行きだろうと。あえて言うならば、外国の商品を買うより、自分の畑を手入れするほうが先だろうと。もちろん、スミスが生きた時代と現代社会とは異なりますが、私には当たり前のことのように聞こえます。
儲かるからといって、遠く離れた国の金融商品に自分の財を投下するのは、自然の成り行きではありませんね。
「いや、儲かればいいんだよ」という考え方もあるでしょうけど、それが本当に幸福をもたらすものかどうか疑問です。自分自身にとっては「合法的」であっても、「不義に投資」している可能性もあります。少なくとも、「natural course of things」ではありません。
経済成長以外の目標というのは、漠然としていますが、「経済成長!経済成長!」と唱える政策は、もう限界に近づいているような気がしました。常に新しいものを求めるのではなく、「豊かな循環」を考えてみたいものです。経済成長などなくても。
「自然の成り行き」は、数式化しにくいですけどね。数字には表せない「しあわせ」は間違いなくある、とみな分かってるはずですが、「エビデンス」を示すのが難しい。
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記事を読んで頂き、ありがとうございます。お気持ちにお応えられるように、つとめて参ります。今後ともよろしくお願いいたします