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ガンダムを生まれて初めて見た25歳男
勧められたものを見る
私はたいてい自室に蟄居していて、外出するには心の準備がいるが、その代わり、外出そのものが苦痛なわけではないので、一度出てしまえばこっちのものとばかりにいらぬ寄り道をしたりする。今日は、懇意にしている知人に誘われて、朝から京都国立博物館に行き、そこで縄文土器やら仏像やら刀やらを見ているときに、そういえば、歴史家の友人に「大シルクロード展」を勧められていた、と思い出したので、その足で京都文化博物館に行くことにした。博物館のはしごである。ところが入口まで来てみると、さまざまな色をまとったご婦人方が長蛇の列をなしていた。何か特別な日だったのだろうかと思い、列の整理をしているスタッフに尋ねると、その女性は、もう会期が終わりに近いので毎日こうなんです、だからもうヘトヘト、と言って、私の肩を小突いた。思わず笑いながら、ああそうですかと言うと、思い出したかのように、三時頃からならマシですよ、という。それならまた出直そうと外へ出たが、それまでまだ四時間もある。どうしようかと蘭州牛肉麵をすする私の頭に、機動戦士ガンダム・ジークアクスのことが思い出されたのである。
ガンダム・ジークアクスも、やはり人に勧められていたものであった。こんな機会でもなければ見ることもあるまいと、気が変わる前にチケットだけ購入して、上映までの一時間は、そこらを歩くことにした。映画館は新京極通にあるので、見て歩くには退屈しない。古本屋に足を向けると、閉まっていたので、すぐ近くにあるもう一つの古本屋に向かった。そこへは一本細い静かな通りを使うとすぐなのだが、その途上に、小さな本屋があった。いや、以前から気付いてはいたのだが、教科書やら雑誌やら文房具屋らを扱うような店だと思って気に留めていなかったのである。それが、今度は店頭に「この箱どれでも100円」と記された文庫本が並んでいたので、目に留まったのである。ただ、それは単に在庫処分をしているだけらしく、店内が狭そうでもあったので、まあ、いいか、と思った矢先、自動ドアが開いてしまった。むろんだからと言って入らなければいけないわけではないのだが、入口を開けたからには入った方がいい気がしたのだ。後から、初老などという時期をとうに越えた店主が外から入ってきて、「ああ、いらっしゃい」と荷物を置いて、座った後、だしぬけに「鞄そこ置いて、ゆっくり見てや」と言う。結局目ぼしいものはなかったのだが、店内にも店主にも好感を持ったので、最近の新書を買うと、自社製のブックカバーを着けた上に、一冊なのに輪ゴムを掛けてくれた。見返しを見ると、カバーの裏に有名な絵本作家の長新太の名前がある。なかなかに素敵なカバーである。私はこういう小さな書店のブックカバーが好きだ。
とこうするうちに、もう時間になるので、映画館に戻った。手持無沙汰になってはいやだし、喉も乾いた気がするし、割高のホットコーヒ―を買って、閑散とした部屋に入った。で、中身の話だが、一応、横光利一の「時間」とガンダム・ジークアクスの内容に触れることはご了承願っておく。さて、私はこれまでガンダムを見たことがなかったし、最近のアニメにも疎い。この作品と関係のありそうなものと言うと、庵野秀明監督の『シン・ゴジラ』を、今ではその理由は全く忘れてしまったが、一度見たことがあるくらいであるし、その『シン・ゴジラ』にしても面白いと思えなかった。ジークアクスは楽しかった。まんまと楽しませられた。これまでガンダムオタクの友人の話を聞いても、ガンダムのゲームを横で見たりやってみたりしても、プラモデルを動かしてみても、分からなかった魅力が分かったような気がする。ただ、もしかしたら、ファンたちは造形そのものに魅力を感じているのかもしれない。そうだとすればやはり私には分からないが、もしそれだけでないのだとすれば、それが分かった気がするということだ。
ガンダムの面白さ
まず、パイロットの魅力。シャアが盗んだガンダムの活躍を見て、仲間が、あのモビルスーツすごい。けどそれを使いこなすシャアもすごい、と言うシーンがあったが、それがまさに、モビルスーツというものがパイロットの能力と一つになって初めて生きることを示している。そして、それこそが、モビルスーツが人型でなければならない理由であろう。それを操縦する人物が、そのまま動いているかのような錯覚を起こさせるためには、その人物と近い形の方が好ましい。さらに、そのことによって、モビルスーツの戦闘シーンは、もはや機械ではなくて、あるいは機械であると同時に、人間の戦闘シーンになる。ガンダムは、SF・ロボットアニメであると同時に格闘アニメでもあり、銃撃アクションアニメでもあるというわけだ。
後半の感想
こうしたガンダムの面白さに興味をもち、また、権力闘争に苦悶する人間の姿が描かれているのにも興味をもった私にとっては、そのどちらの面白さも半減した後半は、その意味では期待外れであった。私にとっては、やはり、前半の方が面白かった。
後半について言えば、なるほどこれは考察をそそのかすものになっている。虐げられた移民たちが暮らす街は、電車の終点にあって、駅名は「ネノクニ」であり、たまたまガンダムに乗ることになった女の子の名前は「アマテ」である。そうなれば、どうしたって「スサノオ」を期待しないわけにはいかない(シュウジがアマテやニャアンの匂いを嗅ぐという、これまた意味ありげな場面から、イザナギの鼻から生まれたスサノオが連想されないでもない。シュウジの「ウジ」から「ウジタカレコロロキテ」という黄泉の国のイザナミの様子を描いた古事記の言葉を連想するのはどう考えても行きすぎだが、そのくらいの行き過ぎをそそのかす力がこのアニメにはある)。エヴァンゲリオンで聖書のイメージを利用したように、ここでは日本神話を利用するのであろう。
ガンダムと横光利一
ただ、それよりも、私の気になったのは、「時が見える」というセリフに関することである。このセリフの話をする前に、横光利一の「時間」の話をしておかねばならない。
横光利一という小説家を簡単に紹介しよう。彼は、第二次大戦が終わってから二年後、四九年余りの短い生涯を閉じた人である、というのが私にとっては時代が掴みやすい。よく並べられる川端康成よりは、一年年長である。代表作としては「日輪」、『春は馬車に乗って』、「機械」、『旅愁』等が挙げられる。個人的には、福田恆存が「横光は恐らく西洋人の描いたコースを日本人として共に走り、何周かの差があるのにそれが見えなくなってしまい、相手と優勝を争い、ついに勝ったと思ったに違いない」(福田は戦後の国語国字改革に強く抗した人であり、私としても彼の言葉を今の国語の形に書き換えるのは心苦しいが、やむを得ず直した。以下の横光の引用も同様。)と、彼の「俗物性」に憤りを表明していることは、面白い。また、宮沢章夫の『時間のかかる読書』(筆者は未読だが)は「機械」をゆっくり読むというものである。
彼は今やほとんど読まれておらず、中でも「時間」は、不人気では決してないけれども最も高名な作品群には恐らく入ってはこないくらいの、言うなれば2番手、せいぜい1.5番手の作品であるため、実際にこの作品が制作者の念頭に置かれているとは考えにくい。が、私はすぐにこの作品を思い出した。「時間」は、座長に逃げられた貧乏な旅役者たちが、風雨の中、仲違いしながら逃げてゆくところを書いたものである。その終わり近くで、全員がへとへとになって、死にかける。その、疲労の果てに安らかな眠りのように訪れる死について、以下のようにある。
快楽──まことに死の前の快楽ほど奥床しくも華かで玲瓏としているものはないであろう。まるで心は水水しい果汁を舐めるがように感極まってむせび出すのだから、われを忘れるなどという物優しいものではない。天空のように快活な気体の中で油然と入れ変り立ち変り現れる色彩の波はあれはいったい生と死の間の何者なのであろう。あれこそはまだ人人の誰もが見たこともない時間という恐るべき怪物の面貌ではないであろうか。
私が思い出したのは、このイメージである。
さて、ガンダムに乗るシャアは、岩石の崩落に遭い絶体絶命の状況で色鮮やかな光に包まれ、何ものかの声を聴く。そして、最後に「時が見える」といって光とともに行方不明になる。その後、アマテ(マチュ)もまた、死に面した場面で二度、色鮮やかな光に包まれる。シュウジがこの鮮やかな光をあちこちの壁に落書きするなどして、この鮮やかな光と、「時が見える」(前半と後半を通じて登場する恐らく唯一の人物シャリア・ブルがシャアの最後の言葉として念を押している)が、意味深な暗号となって、鑑賞者の印象に残るようになっている。
絶体絶命の状況、鮮やかな色、陶然とした心地よさ、「時」を見るという出来事、これら皆、ジークアクスのあのイメージと、横光の描いた「時間」と、共通しているのである。「時間」ではこの後、懸命に死ぬまい、死なすまいと暴れまわり、水が湧いているのを見つけて復活するが、ジークアクスでもアマテは鮮やかな光を見たあとピンチを切り抜ける。
横光の「時間」を初めて読んだとき、面白いことを描くものだと思ったけれど、その「色彩の波」が「時間」と呼ばれること、そしてさらにそれが「恐るべき怪物」と呼ばれること(「時間」が「恐るべき怪物」なのは分かるとしても、この「快楽」のことを「恐るべき怪物」というのは分からない)は腑に落ちなかった。そこは、横光の空想の為せる業なのだろうと独り決めに決めていた。しかし、この度、「生と死の間」の「色彩の波」と、「時」との組み合わせがもう一つ見つかったわけだから、これは、空想にしても無根拠な空想とはもう見なせない。死に面した色彩の波と、時。やはりまだ私には分からないが、何かそういう感覚が、人間にはあるものであろうか。
追記:これを書いたあとに、「ときが見える」は「刻が見える」と書くこと、そしてこれはガンダム宇宙世紀シリーズにすでに出てくるという指摘を頂いた。初めて見た人らしい御愛嬌として見過ごして頂ければ幸いである。