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初めてのnote:自己紹介〜私が適応障害と向き合い、退職を決意するまで〜
はじめに
2024年秋頃、私は仕事を休むことになりました。その日まで、毎日が辛く、涙が止まらない日々が続いていました。夜も眠れず、朝が来るのが怖くて仕方なかったのです。やりたかった仕事をしているのに、まさか自分が「適応障害」になるなんて、ほんの少し前までは思ってもみませんでした。でも、心と体がもう限界だと静かに叫んでいたのです。
この記事では、自己紹介を兼ねて、私が適応障害を発症し、休職、そして最終的に退職に至るまでの経緯を簡単にお話ししたいと思います。
仕事量の増加と心の疲れ
私が適応障害を発症するきっかけとなったのは、明らかな仕事量の過多でした。自社の2ブランドの企画、新規開拓、生産管理、在庫管理、販促、営業、イベント、国内外の数十社をこえる生産者とのコミュニケーション、業務委託先とのやり取りや全ての段取り、数字管理など。それに加え、自社輸入商品の営業、卸先フォロー、在庫調整、新規開拓。さらに、OEMも請け負っていたため、日々何かに追われていました。
もともと責任感が強く、頼まれた仕事は断れない性格でしたし、こなし仕事ができない性分だったので、プレーヤーと指揮官の両方を務めることは向いていないと思っていました。大好きな業界で企画や開発にも携わっていたので、最初のうちは「これも成長のため」と前向きに考えていましたが、気づけば自分のキャパシティを超える量の業務を抱えていました。
朝から晩まで終わらないタスクに追われ、帰宅しても頭の中は仕事のことでいっぱい。休日も心からリラックスすることができず、常に「次の週の仕事」に対する不安がつきまとっていました。
そんな中、同僚からの嫌がらせや、チャットでの陰口が耳に入るようになりました。些細なミスを大きく指摘されたり、わざわざ社内の大きなMTGで全員の前で責任転嫁されたり、わざと無視されたり…。しまいには、「もっと炎上させてあげようか?」と笑いながら言われました。過干渉な同僚たち。私がやっていることに口出しをしたくて、ずっと監視されている気分でした。でも誰か手を差し伸べてくれるわけではなく、事後に過程や結果に対して嫌味を言われるだけ。
自分が先輩であれば、困っているタイミングで手を出します。全て事後に結果論を言われても、正直キャパオーバーになっている私からしたら、結果論なら誰でも言えると思ってしまいます。心が狭くてそんな自分も嫌になっていました。
最初は気にしないようにしていましたが、心は徐々に蝕まれていきました。
心が壊れ始めた瞬間
ある朝、起きた瞬間に涙があふれて止まらなくなりました。理由はわかりません。ただ「仕事に行きたくない」という思いが全身を支配し、体が動かなかったのです。その日は無理をして出勤しましたが、職場に着いた途端、心臓が激しく鼓動し、呼吸が浅くなるのを感じました。その夜も、ベッドに入っても眠れず、ただ天井を見つめて朝を迎えました。
何より、自分の心がどんどん冷たく、空っぽになっていく感覚が怖かったのを覚えています。
この症状が出始めてから、無意識に涙が溢れたり、誰かが喋っていても意識が会話に向かず、「ぽわ〜〜」と周りがクラクラと高熱の時の感覚のようなになることも多く、全く頭が整理できない状態になっていました。デスクにいる時も急にガクっと崩れ落ちるように睡魔に襲われたりと、おかしいなと感じながらも、兎に角メモを取り、TODOリストを作成して、今目の前のこなさなければいけないタスクを必死にこなす努力をしていました。
休職という決断
この症状が改善しない状態が4〜5ヶ月ほど続き、ある日、仕事にいこうとすると嗚咽するくらい涙が止まらず、身体が明らかに拒否反応を起こしていることに気がつきました。とうとう限界を感じ、この症状がおかしいことなのか?どうしても確認したく仕事を休み、心療内科を受診しました。診断結果は「適応障害」。医師からはすぐに休職を勧められました。そのときは、自分が弱い人間だと責める気持ちが強く、素直に受け入れられませんでした。でも、医師の「今すぐ、私が止めてあげます。これは誰にでも起こりうる心の病気です。無理を続けるともっと深刻になりますよ」という言葉に、少し救われた気がしました。当時に、今出ている「眠れない」「涙が出る」といったこの症状が、異常であることを知り、今の自分やっぱりおかしかったんだ!と気がつき、安心したのを覚えています。
(実は、この症状が出てからずっと不安で、病院に行く2週間前に直属の上司に辞めたいと相談をしました。その上司には何度も引き止められ、でも自分の中に限界を感じていて、退職の決意を伝えました。その後、部のトップの方にも退職の意思を伝えましたが「ダメだ」と言われ、何に悩んでいるのか?と聞かれ、全て話しました。その上司から「全て解決するから2ヶ月待って」と言われている状態でした。)
医師から診断書をもらい、私は翌日に会社に休職を申し出ました。
病院へ行った翌日に商談があり、それは社外だったので無事に終えることができましたが、その2日後から福岡出張、その翌週も東北方面への出張が決まっており、宿や新幹線も予約していたので診断書を出すのに中々勇気のいるタイミングでした。行ってからにした方が良いのか?などここでも一人で悩んでしまいましたが、上司にそのことも踏まえ相談をし、診断書のことを伝え、人事面談も行い、すぐに休職をすることとなりました。
正直、ホッとした反面、不安も大きかったです。「このまま仕事を失ってしまうのではないか」「周りにどう思われるだろうか」そんな考えが頭をよぎりました。
休職中の葛藤と心の揺れ
休職してすぐに心が楽になると思っていました。しかし、実際はそう簡単ではありませんでした。職場からは時折連絡が入り、完全に仕事から離れることができなかったのです。最初の1ヶ月は出張関連の連絡が鳴り止まず、2ヶ月目は「まだお休みですか?」「いつ戻ってこれるの?」というプレッシャーを感じるメッセージもあり、心の休まる時間はほとんどありませんでした。
また、「もう好きなことができる環境じゃなくなるから、辞めた方がいいよ」という言葉に悪意はないことはわかっていても、この連絡に心の奥底では「わざわざ休職中にかけることばか?辞めて欲しいのか?」と疑心暗鬼になってしまいました。
自分の心の中で、何度も「このまま戻れるのか」「本当に続けたい仕事だったのか」と自問自答する日々が続きました。
退職という新たな一歩
2025年1月、年が明けても心の中のモヤモヤは晴れませんでした。そして、1月31日、私はついに退職を決意しました。この決断はとても勇気が必要でしたが、今思えば自分の心を守るために必要な選択だったと思います。
退職の手続きを終えた瞬間、心の中で何かがふっと軽くなった気がしました。もちろん、不安が完全に消えたわけではありません。先のことは何も決まっていないので、これからの生活や新しい仕事への不安もあります。でも、自分の心と体の声に耳を傾け、自分を大切にすることの大切さを学びました。
最後に
適応障害になったことは、私にとって辛い経験でした。でも、この経験を通じて、自分の限界を知り、無理をしないことの大切さを学びました。そして、何よりも自分を責めるのではなく、優しく接することが必要だと気づいたのです。
同じように苦しんでいる方がいたら、どうか一人で抱え込まず、信頼できる人に相談してほしいです。心の声に耳を傾けることは、決して弱さではありません。自分自身を守るための大切なステップです。
これから少しずつ、自分のペースで新しい一歩を踏み出していきたいと思います。その記録をここに残していきたいと考えています。
読んでくださってありがとうございました。