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人生に意味はないけれど

「人生は無意味」と言い聞かせてきたが、なんだかんだ人生に意味を求めている自分がいる。そんな気づきを言語化した記事。


最近読んだ本をきっかけに「人生は無意味」説を再考した。本の内容は一言では語り尽くせないが、印象的な考察の一つに「我々が世界に不信感を抱く原因は、全体主義(と資本主義)にある」という主張があった。資本主義については、記事の趣旨と関係ないので省略する。

全体主義においては、人間の行為に伴う「予測不可能性」を排除し、管理者がすべてを制御できる状態を作り出そうとする。その結果、人々は「何かが起こるかもしれない」という期待を失い、「どうせ何も起こらない」という諦念に支配された。これを読んで、人生における「予測不可能性」の重要さと、その予測不可能性から見出される「人生の意味」について考えさせられた。


「人生に意味はない」と言うものの

「人生に意味はない」はよく耳にするフレーズだ。自分自身もそう思うことがある。だが、考えれば考えるほど、実は人生に意味を見出しているのではないかと感じ始めた。「意味はない」と断言する一方で、人生という「物語」を振り返ると、そこに「自分らしさ」を見出そうとしている自分がいる。

例えば、私の人生を振り返ると「北海道で生まれ、幼稚園の頃は泣き喚き、小学校で野球を始め、・・・、新卒入社した会社を辞め、主夫として暮らしている」という一連の物語に「自分らしさ」を感じる。もし心の底から「人生は無意味」と思っているならば、これらの出来事をただの現象の積み重ねと捉え、自分らしさなど感じないはずだ。

出来事が偶然か必然かはわからない。ただ、仮に人生が「それ自体は無意味な現象」の積み重ねだとしても、それらの現象を組み合わせて物語性(=意味合い)を見出す。これが人間の性なのかもしれない。

人生の予測不可能性が意味を生む

人生の意味を考える時、予測不可能性が大きな役割を果たしているように思う。

例えば高校物理の(=ニュートン力学の)問題では、初期条件さえ与えれば物体の運動の軌跡を算出できる。すなわち、未来の出来事を完全に予測できる。しかし、私たちの人生はそうではない。

人生の出来事は予測不可能であり、少なくとも私たちの主観からは偶然に思える。もしタイムマシンで未来の自分を見てしまったら、その時点で人生の予測不可能性が失われ、人生そのものの意味を見失うかもしれない。逆に、未来がわからないからこそ、そこに期待や希望が生まれ、人生に意味が付与されるのだ。

自己決定が意味をもたらす

もう一つ、人生に意味を感じる要素として「自己決定」がある。もし生まれてから今日まで、すべて他者の命令に従って生きてきたとしたら、その人生に意味を見出すことは難しいだろう。しかし、偶然の出来事の中にも自己決定が存在するからこそ、その出来事に意味を感じられる。

私たちは予測不可能な世界の中で、自分の選択を積み重ねて生きている。その選択の数々が物語を形成し、その物語が自分自身にとっての意味を生み出しているのだ。

自己防衛としての「人生は無意味」

私は「人生は無意味だ」と諦観したような素振りを見せている一方で、人生に意味を求めてもいる。自身の過去を物語化してアイデンティティとしているし、未来は予測不能であって欲しいと願っている。

だからと言って「人生は無意味だ」という主張が、無意味だとは思わない。「人生は無意味だ」と主張することで、失望や挫折から自分を守ることができる。

「人生なんて無意味なんだし、好き勝手に生きれば良い」

そう言い聞かせることで、楽になる。これはある種の信仰とも言える。「人生は無意味だ」という教義を信じていれば、どう転んでも自分の人生を肯定できる。つまり、人生無意味説は自己防衛の手段として有効なのだ。

あとがき

人間には、意味を求めるクセがある。しかし、意味を求めすぎると苦しくなる時もある。そんな時には「いやいや、人生なんて無意味なんだぞ」と言い聞かせて逃避する。それでも完全には逃避できない。気を抜くと、意味を求めて彷徨ってしまう。こういう、どうしようもない生き物なのだろう。

ちなみに冒頭で紹介した本の著者、林大地氏とは同い年。なんと修士論文をもとに書籍化したらしい。凄すぎる。自分の修論が本になるなんて考えられない。アーレントの『活動的生』を読んだことがないのに、著者と同い年であることと、出版の経緯に惹かれて読んだ。哲学書だと思い身構えていたが、実際は哲学エッセイといった感じで読みやすかった。

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