自分がまさか自死遺族になるなんて思ってなかった
おじいちゃんが亡くなった。
もう8月末のことだ。
あれから無慈悲にも淡々と時間は経過し続けているが、今でも現実を受け入れられずにいる。
どれだけ膝を抱えて俯くだけの時を過ごしたか。
また、どれだけ ただただ天井を見上げ、こぼれる涙で枕を濡らすだけの時を過ごしたのだろうか。
二人暮らしにはちょっと狭い1Kの部屋にこだまするのは私の泣き声と嗚咽。
どれだけ泣いても、泣きたくなくても涙がこぼれてくるのだ。
思い出はまだ何も語りたくないし、浸ると胸が苦しくて張り裂けそうになるので、ここには真実だけを。
◇
8月のうだる様な暑い日々。
あの頃は仕事への想いも限界を迎え、パニック発作を何度も起こしながらも身体に鞭を打ち続け必死に働いていた時期だった。
すっかり自信を無くし、不安に押しつぶされる日々が続きながらも、抗うつ薬と精神安定剤を飲みながら何とか健常者のふりをして笑顔を振りまいていた。
たった数分前には駅のホームで泣きながら恋人に『消えてしまいたい。』と電話をかけていたはずなのに、数十分後には顔面に笑顔を張り付け仕事をする。
そんな日々が続いていた。
私には頼ったら手を差し伸べてくれる家族も居ない。
ただがむしゃらに目の前にやってくる『毎日』をやりこなすしか生きる道を見つけられなかった。
◇
ある日、いつものように目覚ましが鳴る前に目が覚めた。今日もまた朝がやってきてしまった。
時間を確かめるためにiPhoneを触る。
母親からLINEが来ていた。
絶縁状態に近い関係でもう4年近く会っていない母。
連絡も半年に一度あるかないか。全くと言っていいほど取っていなかった。
眠い目をこじ開けて内容を見た。
『じいじが亡くなりました。』
なにそれ?悪い冗談よしてよ。
慌てて母に電話をかけた。
あれほど聞くことを避けていた母の声。
自分でも驚くほど反射的に着信ボタンを押していた。
話し中のようでツーツーという機械音だけが耳に響く。
母が出ないなら、家族で唯一信頼している弟に。と思い電話をかけた。
着信中のコール音がやけに長く感じる。
自分の心臓の音と共に部屋に反響し続けた。
「もしもし。」
およそ4年ぶりに聞いた弟の声。
相変わらず低く か細く 舌足らずで、聞き取りにくい声だ。
「じい、死んじゃったの?」
自分の声が驚くほど震えていた。
その震えた自分の声と共に溜めていた涙が一気に流れた。
「うん。昨日の夕方。」
認めたくなかった事実を突きつけられた。
ああ、なんでこんな終わり方なの。
頭を固い鈍器で殴られたような衝撃と重だるさ。
込み上げるような吐き気。自分でも身体がガタガタ震えているのが分かった。
弟とその後何を話したのかは詳しくは覚えていない。
ただ、あまりにも急なことで誰も予知できなかったから連絡ができなかった、ということを謝罪された。
弟との電話を切った後、母からの折り返しの着信があった。
久しぶりに聞く母の声は、涙で震えていて嗄れていた。
その声を聴き、私の眼からも大粒の涙がこれでもかというほど溢れてきた。
母から伝えられたのは、祖父が死んでしまった事実と、祖母の認知能力が低下し続けているということ。そして、祖父の死因が自死だということだった。
検査のために一時的に総合病院に入院していたそうだが、翌日に検査を控えた日に病室でビニール袋を被っていたところを発見されたそうだ。死因は窒息死。
信じ難い事実に動揺が止まらなかった。
とにかく、うちには墓がなく葬儀のためにお願いできるお坊さんはもちろんのこと、葬儀場やその後の段取りも何も決まってないとのことで、日取りが決まったら再度連絡をすると伝えられた。
母を責めても何にもならないことなんて重々承知していた。でも心のどこかで、どれだけ連絡を取っていなかろうとも身内に何かあれば連絡をくれるという甘い考えを持ち合わせていた私は、自分の愚かさと悔しさで無意味にも母を責めた。
なぜ連絡をくれなかったのか。
なぜ祖父の現状を教えてくれなかったのか。
どうして私に相談してくれなかったのか。
私が精神疾患と向き合いながら生きているので、負担をかけたくなかった。
家族の誰もが予測できない死だった。
こういうことを話すことで、また私の健康を脅かすことになるのを避けた。
それが母から返ってきた答えだった。
祖父の病気は、仮性認知症。
簡単に説明すると高齢者のうつ病で、一見認知症のような症状が現れる病気だ。
じいは、うつ病だったのだ。私と同じ病気。
私はあの家にいることで病気になった。だから家を出た。
まさか祖父を同じ病気で亡くすことになるなんて思ってもいなかった。
母との電話を切った後、声をあげて泣いた。
なんで、どうして、と頭の中で自問自答を続けた。
終わりの見えない真っ暗なトンネルの中に放り込まれたような気分だった。
時計に目を向けると出勤する時間が迫っていた。
ここ最近、出勤前や駅でパニック発作を起こすことが多く、当日欠勤することも多かったのだが、この時は不思議なことに足が無意識に職場へと向かっていた。
人間、本当に深いショックを受けると思考が停止するようだ。
いつもの発作は色んな事を考えた末の拒否反応なのだと、改めて感じた。少しくらい思考と感受性が欠けるくらいが私には丁度良いのだろう。
恋人にも本当に行くのかと何度も確認されたが、この日は心配には及ばなかった。
どうやって職場に着いたのか本当に覚えていない。
電車に乗った記憶も無ければ、乗り換えをした記憶も無い。
ただ、働ける状態では無いことだけは周りから見ても明白だった。
すぐにチーフに声をかけられ、事実だけを淡々と話した。
自分の病気のこと、じいちゃんのこと、家庭のこと。
そして、しばらく何も考えずに休みたいとも、、、
すぐに休職の手続きをしてくれて、その日は自分の仕事を片付けてから帰らせてもらえることになった。
復帰の目途のついていない休職だったが、受け入れてもらえたことがこの時は本当にありがたかった。
◇
それから数日後、葬儀 告別式の日取りが決まったと母から連絡があった。8月の終わり、二日間で執り行われることとなった。
前日に帰省することを勧められたが、どうしてもあの環境に身を置くことが苦しくて通夜当日に地元に帰ることにした。
ゆらゆらと鈍行に揺られて長い時間をかけ地元に帰った。
なるべく大きな音をイヤホンから流して周りの世界の音を聞かないようにした。
現実は残酷だ。目の前ではしゃぐ女子高生たちを眺めながら、自分の過去と照らし合わせ、下唇を強く噛んで目を閉じた。
駅まで母が迎えに来てくれた。
おそらくしばらく深く眠れていないのだろう。目の下に青いクマがしっかりと住み着いていた。
久しぶりに見る母はあの頃と背丈こそ変わらないが、シワがしっかりと時間の分刻み込まれていた気がした。
当たり障りのない会話を続けながら実家まで帰る。
実家に帰って一番に目に入ったのは、目を背けたくなるほど痩せてしまった祖母の姿だった。
「おかえり~。」
あの頃と変わらない言葉をかけながら、相変わらずセブンスターをふかしている。どんな状況になってもタバコを手放さないのがこの人だ。どんな棘のある言葉が飛んでくるのだろう、と恐れていたのは私だけで、きっと何も変わっちゃいないんだ。いい意味でも悪い意味でも。
でも、見慣れた居間にどかっと大きな棺があるのを目にした瞬間、全ての現実と残酷に過ぎ去ってしまった時間を痛く突きつけられた。
部屋には線香の香りとタバコの煙たい臭いが立ちこめる。
自分の唾を飲み込む音が響くくらい強く音を鳴らしながら、覚悟してそっと棺の中をのぞいた。
そこには見慣れた顔。細くて髪は真っ白でサラサラ。咥えタバコをしながらこたつで昼寝していたあの時と何も変わらない、じいちゃんが寝ていた。
信じられなかったし、信じたくなかった。
「じいは、ぺろちゃんが帰ってきて喜んでるよ。」
祖母からそう言われると同時に堪えていたものが全てあふれ出した。
心の中で何度もごめんとつぶやきながら手を合わせた。こんなはずじゃなかった。久しぶりの再会がこんな形になるだなんて思わなかった。ごめんなさい、ごめんなさい。もう届くことのないごめんを何度も何度も投げかけた。
それからしばらくして、納棺の儀式が執り行われた。
数人の親戚が家に集まってくる。
私が出て行ったことは絶対に近所中に言い広められている。
田舎とはそういうところだ。自分がどんなに秘密にしたいことでも、簡単に身内に裏切られ、事実以上に大きくなって話が広がる。私はこの町のこういうところが昔から嫌いだった。
正直責められるのではないかと怯えていた。
でも、そんなことはなかった。誰も責めず急なことでビックリしたね、と支えてくれた。
納棺の時、故人の好きなものを入れるということで、私は迷わず干し芋とあたりめを入れた。よくじいちゃんと半分こして食べていたのだ。
それと、私が一眼レフを買ってすぐのころに撮ってあげたばあちゃんとの写真を納めた。
納棺の時、久しぶりにじいちゃんの手を握った。
もう息をしていないことを実感する冷たさ。氷より冷たいよ。
こんなお別れの仕方なんてしたくなかった。
こんなに胸が痛くてたまらないのに、儀式は淡々と進んでいく。
あっという間に斎場に連れていかれてしまった。
コロナ禍ということもあり、葬儀は身内と近親者のみで執り行われた。
通夜の前、お焼香に来てくれた一般の人たちは顔見知りの人たちばかりだった。なんだかとても不思議な感じがした。大きくなるにつれて会う機会は自然と減り、もう近所で会っても気付かれることもないくらいに私は大きくなった。それなのに、私への対応はみんなあの時と変わることなく、相変わらずお転婆お嬢扱い。あの時の苦くも甘い記憶が蘇るような気がした。
通夜のあと、私と弟は寝ずの番のために斎場に泊まることにした。
家に帰って家族と一緒に寝るのも嫌だったし、何よりも1分でも長くじいちゃんと一緒に居たかった。それに私が最後に出来るのはこれくらいしかない気もした。
生前じいちゃんが大好きだったコーラをお供えしてあげて、私も一緒に飲んだ。でも、私はコーラが好きじゃない。この飲み物は甘ったるすぎる。
でも、あまり好きではないコーラもその時は不思議と美味しく感じた。
寝ずの番と言っても最近は朝まで燃え尽きない長い線香もあるようで、好きに寝ていいよ。と言われたがこんな場所で眠れる訳もなく、うつらうつらするのが精一杯だった。
弟と最近の流行や相変わらずお互い好きなゲームの話をしながら、時間を溶かした。そして、二人でじいちゃんに手紙を書いた。
3時ごろ寝落ちした弟に毛布を掛け、じいちゃんに線香をあげた。
いくら眠っているだけのように見えても起きることはない。
やっぱり、この家であの病気のことを理解してあげられるのは私だけだった。
それなのに、私は助けられなかった。あんなに心配かけても温かく見守ってくれたのに。後悔と自責の念に潰されそうだった。
そんなことをグルグルと考えてるうちにいつの間にか太陽が昇っていた。
見慣れた人たちが斎場に集まりだし、最後のお別れの時がやってきた。
布に故人が好きだった飲み物を染み込ませて唇に拭って供養してあげる、とのことで皆でじいちゃんにコーラを飲ませてあげた。
じいちゃんはコーラが大好きだった。私には歯が溶けるから飲むな、と言うくせに自分は毎日のように飲んでいた。そのせいかしょっちゅう歯医者に通っていたし、いつの間にか総入れ歯になっていた。それでもコーラは手放さなかった。だんだん食が細くなり、食べることへの興味が薄れた祖父。でも検査入院前に『退院したらラーメンが食べたい。』と言っていたらしい。本当にじいちゃんは相変わらずだ。一緒にもやしそば食べたかったなぁ。
じいちゃんは、沢山の花に包まれて送り出された。
長年、娘と孫(私の弟)と共にやっていたお囃子の曲に合わせて。
私もよく聴き慣れたお囃子の曲。楽しい曲なはずなのに、ずっと悲しい思い出の曲として私の脳内に今でも焼き付いている。
そして、じいちゃんはあっという間に骨になった。
骨になったじいちゃんを見つめ涙をこぼす私に火葬場の人が尋ねた。
「いっぱいお小遣いもらった?」
「お小遣い以上のものをたくさん。私のお父さん代わりだったので。」
◇
葬儀のあと、母が東京の自宅まで車で送ってくれた。
空白の時間を埋めるようにたくさん会話をした。
あの時よりかなり丸くなった母。当時は恨んだりもしたが、距離を取ることで母もこうなるべくしてなってしまったのだろう。と落ち着くことができた。
あの時に話せなかったこともたくさん話せた。病気への理解も進んでいたし、私を本当に想ってくれているからこその言葉も聞けた。それだけで、当時の私がかなり救われた気がする。でも母と和解できたのもじいちゃんのおかげなのか、と考えると胃がチクッと痛んだ。
その時に母に告げられた。
実は祖父が病室で自死を選んだことを、本当は私にも隠すつもりだったと。
伯父が家族だけの秘密にして墓場まで事実を持っていこう、そしてそのことは私にも内緒にしておくと。
おそらく、同じ病気の私がそれを聞いて混乱をするのを避けるという目的より周囲にうつで自死をしたことがバレたくなかったのだろう。心のどこかで恥ずべきことだと考えている。伯父はそういう人間だ。
でも、同じ病気だからこそ私には分かることがある。
自死は健常者が思うほど悪じゃない。
推奨されるべきではないことは明らかだが、身体に寿命があるように心にも寿命がある。心の寿命が先に来ただけのこと。
うつは心の風邪だ、なんて言われたりもするが私は心のガンだと思っている。常に死と隣り合わせ。完治もなければ再発だってある。病気に負けただけ。恥ずべきことではないし、何よりうつは気合いでは治らない。
それをどうにか分かってもらうことが、今後の私の使命だと思っている。
祖父と同じ病気と闘っている祖母のためにも、、、
◇
私に散々自死を止めた祖父が、自分の手で逝ってしまった。
結局、生前何を考えていたかだなんて、どんだけ頭を悩ませても分かるはずがない。
ただ、私がもう少し早くに帰っていれば何か変わったのかもしれない。という考えだけはどうしても捨てられないのだ。
多分私はこのことで一生後悔するのだろう。
でも、私が究極まで追い詰められて生きる希望を見失ったらきっと最終的には祖父と同じ選択をする気もする。そう思ったら祖父にとってこの選択が最善だったのかもしれない。
本当のことなんて結局何も分からないけれど、ひとつ確実に言える真実は、
私は祖父のことが大好きだったということ。
私の祖父はモノづくりの人だった。
お囃子で使う笛や太鼓のバチ。植木鉢やら犬小屋から鶏小屋作れるものはなんでも作っていた。
近所の人も、何かあれば祖父に修理を頼んでくる。
お金を取ったりもしなかった。本当に情に厚い人だ。
それにボウリングがめちゃくちゃ上手い。
毎週木曜日はボウリングのチームで活動していた。
大会でもいつもトップ。景品におもちゃをよく持って帰ってきてくれた。
ストライクを出した後のあのキラキラした笑顔が忘れられない。
数学も得意で学校の宿題はいつも祖父が見てくれていた。
動物にも優しくて、飼ってる犬には本当に優しかった。
毎日一緒に散歩に行ったね。
思い出なんて数え切れないほどある。
だってずっと一緒に住んでいたのだから。
葬儀の日、斎場に飾られたほんの数点の祖父の作品を見て、私も祖父の様に人に感謝されたり誰かを救ったり、心を動かす様な何かを生み出す人になりたいと強く思った。
本当は認めたくないけど、私は健常者ではない。
みんなが出来る当たり前のことが出来ないし、それなりに痛く大変な思いをして幼少期も今も過ごしてる。
でもそんな私だから残せるものがきっとあるはず。
ここまで死に損ないとして生きてしまったからには、私もいつかは何者かになってみたい。
祖父のように。
そんな事を思いながら、コーラを片手に干し芋をかじった。
じい、やっぱりコーラは私には甘すぎる。美味しくないよ。
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