仕事ってなんだ。
なんで仕事をするのか?
東京に来て1年3カ月が経った。大阪とは違うところで働けたのは良い経験だった。周りの人たちが、毎日残業を3時間はしているという環境が初めてだったこともあり、仕事について考えるようになった。
「仕事って何やっけ?」
私には、周りの人たちが作業をしているようにしか見えなかった。たとえやりたい仕事だったとしても、それが作業になってしまえば、何のために働いているのか分からなくなるのでは?そう感じた。今回は、仕事ってなんやろうということを考えてみたい。
仕事と作業
好きを活かした仕事がしたい。これが私の上京前の考えだった。ところが、今考えると当たり前なのだが、自分の好きなことが他人の役に立たない限りは、その言葉はただの戯言でしかない。そして、仕事は他人という存在を考慮して初めてなされるものだと感じるようになった。
その点作業は、他人の存在を考慮しなくても成り立つと考える。目の前の割り振られたタスクを一心不乱にこなせば、成果物は作れる。ただ、そのタスクが、相対する人の何の役に立つのかまで考えられていないのではなかろうか?いや、そんなことまで考えられるような時間がないのではなかろうか?
転職に有利なスキルを磨き、上位1%になれるようなスキルセットを3つ用意していれば、1/100 × 1/100 × 1/100 = 1/1,000,000の人財になれるとよく巷では言われる。でも、他人の意向を考慮できない場合、そのような人財は、交換可能な尖っただけの"人材"にならないだろうか?
穴埋めとしての労働
最近の転職とかリスキリングを聞いていて感じるのが、自分のスキルという労働力を積極的に商品として、労働者自身がアピールしているこの現状の、何かが違うというモヤモヤした感情だ。
労働者は自ら進んで会社のピースになろうとしている。空いたピースを埋められる人財になろうとしている。これは別に終身雇用制度の復活を望んでいるということではない。ただ、40年の社会人生活を、ピースに当てはまる人財で終わらせていいのかという疑問。
仕事には大義がいる!
大きな物語が消失した現代において、こんなことを言うと、酷い時代錯誤的な思考だと思われるかもしれない。それでも、私は仕事を作業にしないためには、これが必要だと考えている。
私は現時点では、データ分析とデータサイエンスの仕事に従事している。昨今話題のデータ関連の仕事だ。この仕事は当たり前だが、数字を扱う。そして気付くと、数字を追うことに躍起になってしまう。これが私がやりたかったデータ分析の仕事なのか?これはただパソコン作業をしているだけではないか?
こんな分析結果が出ました!こんなツールを使ってやったんですよ!凄いでしょ!
こんな作業が相手に喜んでもらえるはずがない。
そもそもなんでこのクライアントは、うちにデータ分析を依頼してきたのか?先方のビジネスモデルはどんなもので、そして何を今課題に感じているのか?分析結果は、どうやったら先方に分かりやすく伝えられるか?
ここまで頭が回って初めて仕事をしている実感を持てるようになると思う。というのも、誰かのために自分の能力を最大限に活かして、その相手に喜んでもらえるよう一生懸命に知恵を絞っているからだ。
そして自分の仕事を通じて、社会が良くなっている実感がプラスされれば、仕事はより楽しいものになるだろうと確信している。
私は関西で生まれ育った。ここで東京と別れを告げて、関西と一蓮托生という思いで、4月からは、関西の活性化に少しでも貢献できるようなそんな仕事を成したいと思う。
人間の人生は自分のためだけに生きるには長すぎる。これが私の持論だ。自分と他人のために生きていきたい、そう思う。