【紫陽花と太陽・上】第七話 お茶飲もう
期末試験。
夏季休暇の前に学校全体で行われるこのイベントは私にとって特別なことではなく、淡々とした生活の延長上にある感覚のものだった。
しんと静まり返った教室で監督の教師からテスト用紙が配られる。テスト期間中だけはいつもの席ではなく出席番号順に座席が変更になる。目の前に遼介の背中がないだけで、なんだか少し緊張してしまう自分がいた。
「はい、試験、開始」
教師が開始を告げると、みんなが一斉にテスト用紙を表に返す音が響く。
ぱらり、ぱらぱらり、コツコツコツ……。
書いている鉛筆の擦れる音。時折聞こえる咳払い。静かな教室にいる三十五名全員が、同じ紙に書かれた同じ文字を読み解くのを私は想像し、不思議な気持ちになる。
こほん、と咳が聞こえた。
どういうわけか、私にはその咳が遼介がしたものだと分かった。
「あああ……完全に終わった……」
試験の合間の休憩時間に、遼介が両手を机に投げ出し項垂れていた。
「私もー、なんかすっごい難しかったよね!」
「そうそう、問三あたりで既にやばいなって思ったもん!」
「やっぱりー」
遼介が離れた席で近くの女子生徒達と話をしていた。先ほどの試験は歴史で、たしかに今回の問題は教科書を暗記する方法では対応が難しい内容だった。
試験以外の時の遼介は私と話をすることが多かった。四月に転校し、戸惑う私を気遣ってのことだと思う。昼食もほとんど私と一緒だ。私には一緒に食べる人などいないから。
最近気が付いたことがある。遼介は困っている人をいつも発見するということだった。
掃除当番や教員の補佐(授業道具を運ぶ係など)、具合が悪い人を介助する(彼は保健係だった)、自分のことは二の次で人の世話をする。彼は誰にでも別け隔てなく接しているように見える。すごいなと思う。
クラスメイトのどこかしらで声量を抑えた会話が聞こえてくる。聞き耳を立てているつもりはないが、なんとなく聞こえてしまう。目の前に広げた次の科目の参考書は開いてはいるがほぼ内容は頭に入っている。ひそひそ、がやがや。遼介の声だけがどうしても耳に入ってくる。テストが終わったら何をしようかという話題に移ったらしい。女子生徒たちがはしゃいだ声で何か話をしている。ショッピング、カラオケ、好きなコスメの話、試験前に読んだ雑誌の特集のこと。
ふと、遼介の声が聞こえなくなってちらりと視線をよこした。遼介は女子たちをにこにこと眺めていた。穏やかないつもの笑顔で、静かに、ただ彼は一言もしゃべっていないようだった。
ほどなくして、二日にわたる試験が終わった。
最後の試験科目が終了し、クラスメイトたちがめいめい帰りの仕度を始めた。私はというと、何週間か前から上靴が見つからなかったので職員室に寄ってから帰ろうと思っており——さすがに毎日スリッパでは歩きにくいので、自宅から室内用靴を持って来て今はそれを履いている——筆箱に筆記用具を詰めたり、参考書を鞄にしまうなど準備をしていた。
「えーっ、さっきの答え、Bにしたの?」
ひときわ大きい声が聞こえた。いつもは透明な膜のせいで、集中していないと人の声はよく聞こえないのだが、今の声は遼介が発したものでとても耳に響いた。
声の主——遼介をふと見た。すると遼介もこちらを見たので、なぜだか、無意識に私は目を逸らしてしまった。
◇
(あ、今、見なかったふりをした)
たった今僕はあずささんと目が合い、逸らされてしまった。目の前でしゃべっているクラスの女の子が解答(だと彼女は主張している)の理由を教えてくれている。最後の試験は英語だったし、まぁ僕は英語も苦手なので彼女の方が合っているに違いない。
静かにあずささんが席を立った。僕が女の子としゃべっているうちに帰る準備ができたみたいだ。
自分も帰らないとと女の子に言い、また来週ーと手を振り合った。
女の子はすぐに違う子とまたしゃべり始めた。あぁ、あずささんがどんどん教室から出て行ってしまう。
「あずささんっ」
教室を出たすぐのあたりで、なんとか急いで声をかけた。あずささんが振り向く。
「あっ、えーと、一緒に帰らない?」
「?」
不思議そうな顔をされた。なんでだろうと思っていると、鞄は……? と聞かれ、初めて自分が鞄すら持っていなかったのに気が付いた。
「あー、忘れてたー」
あずささんが信じられないという顔をして、それが本当に心の声が聞こえそうなほどだったので、つい微笑んでしまった。いつもいつも僕は忘れ物をしてしまう。鞄を持ってこようと教室へ引き返そうとしたら、後ろから申し訳なさそうな声がした。
職員室に寄るので一緒には帰れないということだった。
とっても残念だった。
◇
(すごく悲しそうな顔をさせてしまった)
職員室で担任の教師を呼んでもらっている間、私は思った。
一緒に帰る、たったそれだけのことを私は断ってしまった。少しだけ待っててほしいと言えば済むことだったのに。
断ると、遼介の眉毛がみるみるハの字になった。「そっかぁー、じゃあ仕方ないね」俯いてそう呟いたものの、再度私を見上げたときにはいつもの彼だった。
「霞崎、忘れ物コーナーには、残念ながら上靴は届いてないな」
「そうですか。あの、今の時期に購入できるお店を教えていただきたいのですが……」
「店なぁ。ちょっと待ってくれ」
担任の教師は、ボサボサの頭をわしゃわしゃと掻きながら、別の教師に聞くために席を立った。転入前に制服一式を購入した時はサイズ計測と試着のために私も行ったのだが、百合さんがすべて取り仕切っていたために場所をよく知らなかったのだ。
「ほら、ここがウチの制服が買える店だから」
ここが霞崎の家から一番近いとこかな、と、教師は一覧表をトントンと指で叩き、店舗名や住所、連絡先が記載された紙を手渡してくれた。
お礼を言おうとすると、ボサボサ教師は先ほどとは打って変わって険しい表情になり、
「……で、どうして上靴がなくなったんだ?」
と聞いてきた。
私自身も分からないので、ええと……と言ったきり沈黙が続いた。
三十分ほど職員室にいたのだろうか。紙をもらってから日々の生活のことなどをあれこれ聞かれた。しどろもどろになりながらなんとか話した。自分のことを話すのはあまり得意ではない。
「あ、戻って来た」
玄関に行くと、なんと遼介がまだそこにいた。下駄箱の前の段差に座って、剛ともう一人(クラスメイトではなさそうな女子生徒)と話をしていたようだった。
「もう用事、終わった?」
「ああ……。終わった……」
「じゃあ、一緒に帰ろー?」
「……」
断る理由もなく、頷いて私は下駄箱から外靴を取り出した。今日はちゃんと靴箱にあった。
「翠我くん」
「柊さんは? もう帰る?」
遼介が立ち上がりながら剛の他にその場にいた女子生徒(ヒイラギという名前のようだ)に聞くと彼女は驚いた表情をして、それから「もちろん」とにっこり笑った。
「柊は、俺らと同じ小学校だったんだ」
剛が解説してくれた。
柊という女子生徒が、少し得意げに笑ったような気がした。
「じゃーな」
「柊さん、バイバイ!」
「バイバイ、翠我くん」
それぞれの家の分かれ道で、手を振り合う。
おしゃれでかわいらしい女子生徒は私たちと反対の方向へゆっくりと歩いて行った。
「テスト終わったねぇー、あー、疲れた!」
大きく伸びをして遼介が空を見上げた。外は暑く、シャツの首元のボタンを外していた。
「今日は椿を迎えに行くのか?」
「うん、行くよー。だから毎日行くんだってば。行くのは夕方だけど」
今日は金曜日なので、明日は学校が休みだ。あと一週間もすれば夏休みが始まる。私は上靴を買うために百合さんに連絡をしようと思っていた。私にとっての買い物は、食料品と日用品以外は全て百合さん(兄の秘書)と一緒に買うか、必要なものを伝えて買ってきてもらうかのどちらかだ。
(不要な出費になってしまうな……)
上靴はあらゆるところを探したが結局見つからなかった。
悩んだが、体育の授業でも上靴が必要なので、やはり買わないといけないようだった。
「うちでお茶飲んで行かない?」
遼介が剛を誘う声が聞こえた。遊ぼう、ではなく、お茶飲もう、というのが彼らしいと思った。彼はお茶が割と好きらしい。
「あずささんも、どうかな?」
遼介が顔を覗き込みながら私にも尋ねたので、ものすごく驚いた。
「私⁉︎」
自分でも聞いたことがないほど素っ頓狂な声が出てしまった。
「テスト終わった記念」
「記念……」
「ぱーっと、こう、ほうじ茶でも飲もうよー!」
両手をぶんっと上げて、遼介が満面の笑みで誘ってきた。
予定がある、と断ることも頭に浮かんだが、一緒に帰るのを断ったときの悲しそうな顔を思い出し、少しくらいなら大丈夫かと気持ちを切り替えた。兄の今日の予定を再確認する。少しなら、ほんの少しならきっと大丈夫。
「だめ、かな……」
すぐに返事ができなかったので、遼介がおそるおそるといったように聞いてきた。
「……お茶、いただき、ます」
「固ぇ返事だな。初めて聞いたわ。んな返事」
剛が呆れた声でぼやいた。キツい口調に一瞬緊張したが、彼の顔を見ると微笑んでいた。
人から誘われたことも、誘いに乗ったことも、初めてだった。
(つづく)
(第一話はこちらから)
この記事が参加している募集
数ある記事の中からこちらをお読みいただき感謝いたします。サポートいただきましたら他のクリエイター様を応援するために使わせていただきます。そこからさらに嬉しい気持ちが広がってくれたら幸せだと思っております。