
「視覚トリップ」展へ行ってきました。
先日、ワタリウム美術館で開催されている「視覚トリップ」展へ行ってきました。

私は美術に詳しくないけれど、未知のものを真ん中にして異質なもの同士が出会い、共創造されゆく「いま、ここ」の連なりと生成変化に関心があります。だからこそ自分と他者の「体験」や「感情」の「混在」という部分やホームページで紹介されている作品に惹かれ、足を運びました。
今回のブログでは、特に印象的だった青木陵子さんとナムジュン・パイクの作品について感じ考えたことをまとめていきたいと思います。
変化する自由分子としての自己・存在〜青木陵子さんの作品に出会う〜
まずは青木陵子さんの作品について。解説文の「道の先はよく知らないが、振り向くとよく知っている」という言葉は私が「名のない遊び」として捉えているものと重なるように感じ、嬉しい気持ちになりました。

1つひとつの作品の中に動きを感じ、特に「自己の数が増えていく」(2019-2020年、下画像左側)や「繰り返すとよろこぶ細胞」(2019-2020年、下画像右側)からは、「自己」「自分」は一見過去と変わらない持続的なものである気がしてしまうけれど、実はそうではなく、一瞬一瞬の動きの中で異質なものと出会い様々なものが混ざり合いながら常に変化していくことを繰り返す存在なのだなぁと感じました。「繰り返すとよろこぶ細胞」も、全く同じことを反復するのではなく「変化すること・動くことを繰り返す」ことをよろこんているのだろうと解釈しました(的外れでしたら申し訳ございません…)。

展示では「リボーンアートフェスティバル」や「変化する自由分子のWORKSHOP」展についても言及されていました。リアルタイムで体感したかったなぁと後悔しつつ、後日ホームページでレポートを見つけて読ませていただき、心が躍りました。リンクを貼らせていただきます。
未知を真ん中に、様々な異質な要素を組み合わせながら手探りで何かを創る…そのプロセスでは個々の要素に役割は事前に固定されておらず(ものも、人々も、アイディアも)、次の瞬間には違った組み合わせの中で違った役割を担うこととなります。だからこそ予測不可能な動きが生まれ、思いがけない何かが共創造されていくのです。レッジョ・エミリアの「レミダ」で参加したワークショップを思い出しました。

「無限」と生々流転〜ナムジュン・パイクの作品に出会う〜
次に、ナムジュン・パイクの作品について。ちょうど「いま、ここ」について、発達心理学者のD.Sternの文献を読みながら考えていたところだったので「なるほど!」と思いました。

カセットテープのメタファーを用いて、生々流転する動きとして「現在」や「一生かを捉える視点に共感。また、語や概念に対する感性が素敵だなぁと感じ、「Feed back」とともに「無限」のダイナミズムを生み出す「Feed forth」という語を生み出したり、「?」を共通項としつつも異質な(反転している)「?」と出会い互いに向き合うことで❣️(厳密には下に2つ点がある)が生まれるなど、ユーモアを含めながら自らのイメージを創造していく姿が非常に興味深く感じました。



アナログゲームやタロットに関心がある私にとって「ビデオ・カードの習作」(1980年)という作品がとても興味深く、「いま、ここ」の〝点〟を捉える写真に連続性を持たせるとともに、カード化することで並び変えることが可能になり、そこから新たな組み合わせや意味が生成変化していく様も同時に表しているように感じました。
このように考えればタロットも、固有の絵やメッセージが込められたカードがスプレッドという形でランダムに並べられることにより、順番にカードをめくることで生まれる連続性と、状況や文脈なども含めて混ざり合いながら意味が生まれゆく(文脈や組み合わせによって常に意味は変化する)生々流転性の両方を含んだ動きを生み出すことができるのだと感じました。ナムジュン・パイクはタロットカードの中にこのようなダイナミズムを見出したのかも知れないと思い、勝手に親近感を覚えました。



遊び・学び・知への援用〜展示を受けて新たな生成変化を生み出す〜
以上「視覚トリップ」展において、美術に関して全くの素人である私が特に印象に残った作品についてのレポートでした。この展示を受けて感じ考えたことを、私のフィールドである教育・保育分野に落とし込んでみると、次のようなことが考えられそうです。
・生々流転する存在としての発達観・人間観…人間は、階段を登るがごとく順番に予め定められた能力を獲得していく存在ではなく、ナムジュン・パイクが言うところの「Feed back」と「Feed forth」を繰り返しながら、青木陵子さんの「自己の数が増えていく」のように〝動き〟の中で生々流転していくような存在であるように思う。保育や教育など子どもたちと関わる場においても、このような発達観・人間観への転換が求められるように思う。
・異質性ゆえの共有、そして未知…それぞれの要素(人、もの、環境、概念、そして今回の展示のタイトルである視覚などの感覚)は当然ながら異なる。しかし「異なるから共有不可能」なのではなく、むしろ「異なるからこそ共有する意味が生まれる」のではないだろうか。異質なものが共有され混ざり合うためには「未知」という間主観的な場が大きな役割を持つ。
・未知を真ん中に異質な要素が混ざり合う営みとしての遊び、学び、知…生々流転する異質な要素同士が未知を真ん中に混ざり合うーこのような動きとして遊びや学び、知を捉え直すことができるのではないだろうか。その過程の中ではそれぞれの要素は対等であり、常に役割を変化させながら、遊び、学び、知を生成変化させる「Feed back」と「Feed forth」の原動力となる。その動きはもはや、予め定められたゴールへと向かう遊びや学び観では捉えることができない。
コロナ禍で生じた人々の物理的な断然。だからこそ「視覚」を「個」に閉ざされたものではなく「共」へと開かれた媒介因子として再解釈し、感覚の異質性の中に、無限に続く動きを生み出す未知の創造への可能性を見出すー。今回の展示から学んだことを私自身のフィールドに落とし込めるよう、引き続き探究していきたいです。