あさっての花、土曜日の月。(下)

空港からは、バスに乗った。
そして車窓の向こうの景色に、私は思わず額を寄せる。
鏡みたいな湖に、紅葉した木々や青い空が映り、白い教会や、レンガ造りの家々、石畳のストリートが、バスの後方へ流れていく。
バスに揺られ、森を抜け、街を抜け、また森を抜けて、また別の街へ出る。

古い文化を残す美しい町並み。石畳のロータリーのバス停で私は降り、伸びをしてあくびみたいに息を吸う。空気は澄んで、森の匂いがする。そして空は触れるくらいに近くて青い。ロータリーには、電話ボックスがある。
私はその前で、何度か深呼吸した。

呼び出し音が鳴り、陽気な声の年配の女性が出た。私は、祖母のフルネームを言って確認する。

「私で間違いないわ、ところで、どなただったかしら?」

彼女は優しい声で私に訊き返す。
私の名前を言い、あなたの孫です。と答える。

「父の事を知りたくて、東海岸から来ました。あの、多分、信じられないかもしれないんですけど、今、あなたの街のですね、ロータリーにいます。なんか、その、ほんとにきれいな街で、びっくりしました。その、もしよろしければ、その、会っていただけないかなって思う、んですけど、どうですか?」

なんだか興奮して言葉が沢山溢れ、ほんの少しだけ体が震えていた。
飛行機の中でも、バスの中でも、行かないほうがいいのかも知れないという気持ちがあった。何年も会ってないのだから、向こうはそもそも会いたくないかも知れない。会わないほうがいいのかもしれない、と思った。電話でその不安が顔を出し、言葉が溢れた。

受話器の向こうで、しばらく沈黙が続いた。
電話が切れたのかと思って、受話器を耳に強く押し当てる。
すると、ロータリーの向こうの、白塗りの家の扉が開いた。サナギの背中が開き、蝶が羽を出すみたいに。

そこには、白髪でメガネの女性が、受話器を持って立っている。
耳に押し当てた受話器から、なんてこと、神様、と聞こえた。彼女の口も同じように動いた。私はそっと受話器を置いた。

彼女は心臓のあたりを両手で押さえて、首を左右に振っている。唇が、神様、ありがとう、と何度も動いている。私はバックパックを背負い、彼女の元へ、石畳を歩く。

「はじめまして。あの、あなたの孫です。グランマ。」

グランマは、私の頭の先から、足の先まで、何度も頷きながら見つめ、涙を流しながら、私を母鳥みたいに包んだ。
グランマは、私の名を何度も呼び、父の名を呼び、誰かに宛てたありがとうを嗚咽とともに漏らした。見ず知らずの、懐かしい香りとぬくもりに、ほっとした。


グランマが入れてくれた紅茶と、今朝焼いたというスコーン。小さなテーブルにそれらを並べ、ポーチのソファで私達は話した。

父と母のこと、離婚のこと、
父が離婚後にいかに後悔したかということ。
私の大学のこと、ひとり旅のこと。
父の事故のこと。
父と母の結婚前に亡くなったグランパのこと。
父の子供の頃のこと、私の恋愛のこと。

街の人々が前を通るたび、グランマは私を嬉しそうに紹介した。街の人々は、私にもにこやかに挨拶をして通り過ぎる。

日が沈むと、ふたりで夕食を作り、ふたりで食べ、ふたりでワインを飲んだ。そしてまた話した。今までからっぽだった時間の器を、ふたりの言葉で埋めるみたいに、私達は話した。

夜になると、暖炉の明かりがやさしく揺れ、昼間よりもこの街はさらに静かになった。
暖炉の上には、父やグランパや、赤ん坊の私の写真がたくさん飾られている。
私は今日までグランマの名前も顔も知らなかったけど、グランマは、ずっとこの写真を見て、わたしを想ってくれていたのだろう。胸が少し、ちくりとした。

そうだわ、と言ってグランマが立ち上がり、アルバムを二冊持ってきた。
アルバムを開くと、若い男性の写真。父だろうか。グランマの顔を見ると、優しく頷く。


びしょ濡れのラガーシャツの集団の中で笑っていたり、

ギターを抱えていたり、

くわえタバコでバイクにまたがったり、

ビールの瓶を口に当て、友達と肩を寄せていたり、

グランパとボートで釣りをしていたり、

家族3人で焚き火を囲んだり、

湖で水着の仲間たちとバレーをしていたり、

教会でライスシャワーを浴びていたり、

若き日の母を助手席に乗せたり、

母の大きなお腹にキスしたり、

白パンみたいに小さな赤ん坊のおでこに唇を寄せたり、

その子をお風呂で泡だらけにして笑ったり、

その子と一緒にケチャップだらけになって笑ったり、

玄関のポーチでその子を抱いて居眠りしたり。

顔も声も知らない父だけど、笑い声やギターの音や、バイクの音が聴こえてきそうで、とても懐かしく感じた。

次のページには、何も挟まれていなかった。


その次のページも。
その次も。
その次も。
写真は一枚も挟まれていなかった。

私はだまって白紙のページを眺める。
物心ついたときから、父はいなかったし、死んだって聞かされてたから、いないのがあたりまえだったのに。知ってたのに。寂しくなかったのに。
私は、ぽっかりした心で、なにもないページを見つめる。


「子供の頃の写真もあるのよ。」

グランマは目元を拭い、私の肩を撫で、もう一つのアルバムを開いた。

最初のページには、さっきの白パンベビーによく似た赤ん坊の写真があった。父だ。

両親に抱かれている白パンベビー父。

三輪車に乗り、なぜかギャン泣きの父。

うさぎを抱いている父。

うさぎに顔を蹴られギャン泣きの父。

バットマンの衣装で胸を張る父。

3つロウソクのささったケーキを眠そうに見つめる父。

泥だらけで笑い、ポーチを走り回る父。

泥だらけのまま疲れたのか、ポーチで泥のように眠る父。

雪にはまってギャン泣きしている父。

バットを振って走り出す父。

街で友達と自転車に乗っている父。

虫眼鏡で地面を見つめる父。

小さなトロフィーと、クレヨンで描いた馬の絵を持つ父。

キャンプでマシュマロを焼く父。

馬舎でポニーに鞍をつける父。

ポニーに乗り誇らしげな父。

グランマの料理を手伝って卵を割る父。

教会で子どもたちと歌う父。

黒い馬に乗り、障害物を越える父。

初めての恋人だろうか、女の子と手をつなぐ父。

泥だらけの作業着でスコップを持ち、カメラに笑いかける父。





知ってる。

この笑顔を、知ってる。


まぎれもない。
父は、4歳の時に夜の海で出会った、あの少年だった。

アルバムを閉じて、胸に抱き、暖炉の上の父を見つめた。あの少年の言葉はずっと今まで意味がわからなかった。でも、今ならわかる。このアルバムを見つけた私なら、わかる。私は、アルバムを抱きしめた。

グランマがホットココアを入れてくれて、
黙ってそばに座っててくれた。







父の子供部屋で私は寝ることにした。
部屋の入口でグランマは言った。

今日は人生で最高の日よ。
祖母としてあなたと話ができたし、
息子の母としても、
夫の妻としても話ができた。
あなたの恋の話で、ティーンエイジの女の子としても話ができたの。
私はこの先ずっと、この日のことを思い出すと思うわ。
来てくれてありがとう。
おやすみなさい、
私の最愛の孫。

私とグランマはゆっくりとハグをして、おやすみ、とお互い言った。

窓を開けると、冷たい空気が部屋にゆっくりと入ってきて、息は白くなった。
シーツにくるまって、部屋の電気をそっと消して、窓辺に座る。

マロンクリーム色の月と、たくさんの木々、たくさんの星々を、眠る鯨みたいな湖が映している。
吐く息の音がやけに大きく感じ、
星がまたたく音さえ聞こえてきそうだ。
羽ペンで誰かが白い線をひいたみたいに、いくつかの星が流れる。

空気は、ひんやりとしている。
でも私の胸の奥は、誰かにハグされているかのように、暖かかった。




白い天井に、湖の水紋がゆらゆらと燦めいている。ベッドの上で大きく伸びをして窓際に立った。

湖も目覚めたみたいにさざ波が起きて、金色の空を映し、木々が吐き出す水蒸気には虹が出ている。湖のまわりを老夫婦や犬の散歩の人々が歩いている。
私は思わず、この美しい光景に拍手しそうになった。


おはよう、グランマ。

一階に降りると、グランマは朝食を作ってくれていて、いい香りがしている。
おはよう、と笑顔で彼女は言って、紅茶の缶とコーヒー豆の缶と、オレンジジュースの瓶を並べて、手のひらでそれらを指し示す。
私は少し考えて、コーヒーを指差す。
グランマは指を鳴らして少し踊りながら、コーヒー豆を挽く。肺の奥まで香ばしい香りで満たされる。

初老のポストマンが玄関をノックして、グランマに新聞を手渡した。お、君がお孫さんだね、と、私にウインクして、笑顔を置いていった。

グランマは、コーヒーを食卓へ2つ置き、食卓の上で私の手を握り、食事の前の祈りの言葉を述べる。それが終わると、メガネ越しに私に笑いかけ、さ、食べましょう、と言う。

葉野菜のサラダと人参のグラッセ。
ベーコンとソーセージと、
サニーサイドアップが2つ。
バターとラズベリージャム。
薄切りのブレッドが2枚。
刻んだベーコンが入ったマッシュドポテトには、メイプルシロップがかかっている。

私はマッシュドポテトを口に含んだ。
なめらかで、程よい塩加減。
そして、メイプルがなぜか落ち着く。
あの時は、おえっ!なんて言ったけど、私、この味好きだなぁ。
ねぇ、私、この味、好きだよ。

ゆっくり味わっていると、料理やテーブルが滲んで、涙がこぼれた。
私は、目元をさっと拭って、とってもおいしいと、そうグランマに伝えた。
グランマは満足そうに笑う。

風は吹き、カーテンは揺れる。
庭の花の香りがする。







































あとがき


Junさんのnoteを巡っていると、全く知らない音楽に出会う。

Junさんおすすめの音楽を聞き、
その音楽の他のバージョンを聴くのが最近の僕のならわしになっている。

別バージョンを聞いていると、その演奏家の一つの曲が気になった。



ギターの音が聞こえてくると、月夜の海が見えて、ふたりの話し声が聞こえた。

ふたりは、兄と妹ではないし、友達でもない。

ギターの旋律が途中でハーモニクスという共鳴を利用した技法に変わる。
この少年は、共鳴なんだ、と思った。
少年はもういないけれど、見守っているんだと思った。


「あさっての花、土曜日の月。」
は、この音楽から生まれました。


イヤホンをご用意いただき、
静かな部屋へ行き、
夜空を見上げて、
ぜひ、聴いていただきたいです。



夜の砂浜へ、ご招待です。


朴葵姫
パリャーソ




youtube聴けなかったようなので、水野うたさんが探してくれた!↑





お読みいただきありがとうござる!










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拝啓 あんこぼーろ
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