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パワハラ死した僕が教師に転生したら 19.パワハラ死した後の世界(労災申請、損害賠償請求、パワハラの証拠)

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 教師の13回目の社会の授業。
 夏が近づこうとしているのに、相変わらずスリーピースのスーツのままの教師が教壇にいる。
 青白い面持ちで生徒達に微笑みかけ、授業を始める教師。
 
「今日の授業では、前世の僕が死後に経験したことを話します。それは、とても不思議な体験なのです。前世の僕は、ビルから飛び降りた後、深い眠りからゆっくりと目覚めるようにして、徐々に意識を取り戻します。次第にはっきりしてきた視界には、あのビルとそこを行き交う人々が映っていた。街の騒音が聞こえ、いつもの街の匂いもした。あんなに高い所から飛び降りたのに、死ねなかったのかな、と思いました。そして、自分の体を確かめようとした。しかしどこを見回しても、自分の体が視界に入ってこないのです。手で自分の体を触ろうとした。でも、手の感覚も、それが動いた感覚もなかった。歩こうとしても同じだった。僕は恐くなり、体の感覚を求め続けた。けれど、それはどこにも見つからなかった。僕は理解しました、僕には肉体がないのです。僕は呆然とした。僕は意識、思考、視覚、聴覚、嗅覚だけが残った魂のようなもの、いわば意識体として存在していたのです」と教師が言う。
 
「・・・・・アトム、嘘つくの、本当に好きだよな」と冬司が疲れて濁ったような瞳を優しく細めて半笑いで言う。
 
「嘘ではない、本当に経験したことなのです。そして、『どこでも行きたい場所に行ける。過去ならいつの時間にでも行ける』という穏やかな男性の声が、僕の意識にゆっくりと、とどろくように浮かび上がった。何なんだこれは、と思いました。僕は呆然としたまま、何日もそこにいた。そしてこの異常な状態から、どうやら自分は死んだのだ、と理解するようになった。とても悲しかったけれど、あの不安感や絶望感は消えていました」
 
「・・・・・前世のアトム先生は、遂に、心霊になっちゃった?」と意地悪な笑みを浮かべた優太が言う。
「怨霊とか、ですか?『店長、社長、お前達を呪ってやる』とかブツブツ言いながらあの店の周りをさまよっていた、とか?」と文香が言う。
「・・・・・地縛霊、か」と颯太が冷たく言う。
 暗い表情を作った冬司が「その店舗では、その社員の死後、数々の怪奇現象が・・・・・」とヒソヒソ声で言う。
「うー・・・・・突然にフォークとナイフががねじ曲がり・・・・・」と優太もヒソヒソ声で言う。
「客席のスープは突如グツグツと煮えたぎり、血のような赤に色を変え・・・・・」と震えるような小声で文香が言う。眼鏡のフレームに当てた細い指先と眼鏡も震えている。
「夜明けが近づくと、近くの古いビルからは奇っ怪な叫び声が・・・・・」と冬司も震えるような声で言う。荒れた薄い唇と机の上に並べた浅黒い両手も震えている。
「パラノ野郎!うわあああああああああ!」と鳥居が突然立ち上がり、奇声を上げる。
 
 なんとなく笑ってしまう生徒達と、うなだれたまま深いため息を付く教師。
 
「意識体はそういうヤバイ霊とは違うのです。もっと静かな存在なのです。意識体は現実の世界に作用できない、何一つ影響を与えることができない。そして、意識体には特別な能力がある。意識体は行きたい場所に、そして過去の行きたい時間に、瞬時に移動できる。神様がそう教えてくれたのです」
 
「・・・・・神様?」と丸い瞳をさらに丸くして優太が訊く。
 
「ええ。僕の意識に声を浮かび上がらせた高次の存在のことです。僕は何日もあのビルの前で呆然としていた。そして漠然と、自分は何故あのような最期を迎えることになってしまったのだろうか、と考えるようになった。それで、ある時、あの存在を思い浮かべ、意識の中で問いかけてみた。『僕は何故、あのような最期を迎えることになってしまったのだろう』と。すると僕の意識に『どこでも行きたい場所に行ける、過去ならいつの時間にでも行けると言っただろう。現在と過去を思うままに見て回り、自分で答えを見出しなさい』という温かみのある深い男性の声がゆっくりと浮かんだ。そして僕が黙っていると、『さあ、行きたい場所と時間をイメージしてみなさい。言葉を思い浮かべるだけでも良い』と言う声が浮かび上がったのです。僕は試してみた。すると、それは本当のことだった。場所と時間をイメージすれば瞬時に、本当に、そこに行けた。それは驚くべき体験だった。それで僕はその存在のことを神様と呼ぶことにしたのです」
 
「うー・・・・・アトム先生の大ウソはもうなんでもありの・・・・・マンガの世界」とニヤニヤした優太が言う。
「マンガの世界ではない、本当に経験したことなのです」
「どうせアイドルがお風呂に入ってるところでも、見てたんじゃないのかなぁ」と愛鐘が薄桃色の頬に微笑みを浮かべて言う。
「は?」
「そうなった先生は女の子からは見えないんでしょ?」と愛鐘が優しい声で訊く。
「・・・・・まあ、意識体は実体のない存在なので、そういうことになるのですが・・・・・」とおどおどした声で教師が答える。
「・・・・・見てたな」と文香が蔑むような目つきで宣告的に言う。
「最初にイメージした場所がそことか?」とニヤニヤした冬司が言う。
「それで、その声の人を神様と呼ぶようになったじゃ?」と優太が笑いながら言う。
「そんなものは見ていないのです。だいたいあんな亡くなり方をして、その後に最初にすることがのぞきでは、それこそ全くの馬鹿ではないですか。それでは貴重な機会を与えてくれた神様にも申し訳が立ちません」
「・・・・・でもたまには、見てたんじゃないかなぁ。男の人のそういうのは、死んでも変わらないんじゃないのかなぁ」と愛鐘が楽しそうに言う。
「見てません」と大きな瞳を泳がせた教師が言う。
「・・・・・見てたな」と冬司が言う。
「・・・・・全くの馬鹿か」と颯太が淡々と言う。
「うー・・・・・アトム先生は、エロい心霊、だった?」と大笑いしながら優太が訊く。
「見ていません」と少し顔を赤くした教師が言う。
「見てやがったな、このエロ教師」と文香が言う。
「パラノ野郎!エッチでちゅねぇ!エッチでちゅねぇ!アンタ死んでもエッチでちゅねぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」とおっさんのような唇と尖らせて言いながら、両手の人差し指をつんつんとくっつけたり離したりする鳥居。
 
「・・・・・だから、神様に誓ってそんなものは見ていないのです。まったく近頃、妄想を止められないパラノな生徒が多くて困るのです・・・・・とにかく僕は意識体となり、とにかく時間の流れていく現在と過去を行き来し、色々な出来事を見て回ったのです。そして現在では、僕が亡くなった後に何が起きるのかを見つめていたのです」
 
 目を閉じて、左の手のひらで髪を押さえ、息を整えてから授業を続ける教師。
 
「僕は、地方都市に住んでいる両親のところに良く行きました。彼らは僕を失った深い悲しみの中で、僕が何故、自殺したのかを考えるようになる。そして長時間労働やパワハラがその原因ではないかという疑いを抱き始めました。
 というのは、僕が終着駅でパワハラを受け始めた頃に、母さんから電話があって、少しだけ話したことがあるのです。『新しい会社はどうなの?上手くやれてるの?』と訊いてくるので、『厳しい会社だよ。最近、勤める店が変わったんだけど、忙しくて残業ばかりだし・・・・・よく怒鳴られるし・・・・・たまに手を出す人もいてさ』と答えました。本当のことは親にはなかなか言えないものです。『・・・・・大丈夫なの?』と訊かれて、『うん、いつもそうじゃないし、店もまたそのうち変わると思うし・・・・・』と答えました。母さんはしばらく黙り込んでから、『あなたは・・・・・転職ばかりして、もういい歳になってしまって・・・・・』と言いました。そして僕が黙っていると、『もうそろそろ落ち着かないと・・・・・少しは辛いことがあっても、そこが最後の会社だと思って、一生懸命、頑張らないと・・・・・」と言ってくれました。でも僕はやりきれない気持ちになって、すぐに電話を切った。その後2ヶ月もしないうちに僕が自殺したので、そういう疑いを持ったのだと思います」
 
「それで両親は、労災申請をしようと、彼らより一回り若い、五十代後半くらいの労働問題が専門の弁護士に相談に行きます。労災、正確には労働者災害補償保険といいますが、これは、国が労働者を雇う会社に保険料を支払わせ、このお金を国が貯めておき、労働者が労働により怪我や病気をした場合には労働者に、労働者が亡くなった場合にはその遺族に、国から償いのお金が支払われる仕組みです。労働者が長時間労働やパワハラでうつ病となり、自殺した場合も、このお金が遺族に支払われます。この支払を国、正確には労働基準監督署という役所に請求することを労災申請というのです。
 ただ、労災申請が認められ、お金が支払われるには、パワハラや長時間労働があり、それが原因で僕がうつ病になり自殺をしたことの証拠が必要なのです。そして愚かなことに僕は、パワハラや長時間労働の証拠を何一つ残していなかった。遺書は書いていない、日記もない。病院に行っていないのでうつ病の診断書もない。友達がいなかったので会社の人間以外、僕の状況を知っている人がいない。僕の身体には、店長から殴られたり蹴られてできた痣や傷がたくさんあった。けれど、それを写真に残してはいなかった。そして高いビルから飛び降りたので、僕の体は地面に叩きつけられた時におそらく激しく損壊して・・・・・警察の鑑識係の人も、痣や傷の確認ができなかったと思います」
 
「・・・・・自分の死体は見ていないのか?」と虚ろな瞳の颯太が良く通る冷たい声で訊く。
「・・・・・それは・・・・・見る気になれなかった・・・・・そういう気持ちにはなれないものです」と小声で教師が答える。
 
「・・・・・それから、スマホの位置情報の履歴は、僕が長時間店舗にいたことの証拠になる。自殺の方法の検索履歴も、うつ病だったことの証拠になります。でも、僕はスマホをポケットに入れたまま飛び降りたので、おそらくスマホもバラバラだった。弁護士は何度かの打ち合わせの後、あまりにも証拠がないので労災申請が認められる可能性はほぼない、筋が悪い案件なのであきらめた方が良いかもしれないと、両親に伝えていました」
 
 一呼吸置いてから授業を続ける教師。
 
「一方、あの会社では、僕の死後すぐに証拠の隠滅が始まります。終着駅に役員が送り込まれ、彼と店長は僕の作成した、あるいは僕と関係のある書類やデータを全て点検し、パワハラや長時間労働の証拠となりうるものを片っ端から処分して行った。店に一台あったパソコンは廃棄され、新しいものに取り替えられた。僕が使用した時刻の記録がパソコンに残っていると、長時間労働の証拠となるからです。そして役員と店長は、社員やアルバイトを1人ずつ事務室に連れ込み、僕のことは誰にも話すな、僕について訊かれても何も答えるな、訊いてくる人が現れたらすぐに報告しろ、と恫喝していました」
 
「しばらくして両親は、証拠を探すために泊まりがけで上京します。彼らは終着駅で何度もコーヒーを飲み、食事をし、社員やアルバイトをつぶさに観察していた。その疲れ切った表情や、飛び交う罵声を期待していたのかもしれません。しかし、そんなものはどこにもなかった。彼らが見た終着駅は、どこにでもある普通のファミレスだった。終着駅には僕の代わりに2名の社員が配属され、残業は禁止されていた。店長は社長から『しばらくおとなしくしてろ』と言われていた。あの社長は、用心深く、極めて慎重に事に当たっていました。
 両親は、社員やアルバイトの顔を何日もずっと盗み見ていた。そして数日後、彼らはポケットにボイスレコーダを入れて終着駅の近くに張り込み、店から出てくる社員やアルバイトに『笠井望さんのことで・・・・・』と訊いていた。望というのは、前世の僕の名前です。けれど、誰もが両親から顔を背け、足早に通り過ぎて行った。そのよそよそしい表情を見て、両親はパワハラや長時間労働があったという疑念を強めます。
 でも現実には証拠は何一つ無い。それでも両親は弁護士に依頼して、労災申請を行います。申請があると、労働基準監督署の担当者はあの会社を調査する。そこで証拠が出てくるかもしれないという淡い期待を抱いてのことです。弁護士はその担当者に、パワハラと長時間労働に苦しむ僕から母さんに何度も相談の電話があった、そして、亡くなった僕のアパートのゴミが散乱した状況からうつ病を発症していたという、でたらめな説明をしていました。
 担当者はあの会社に一通りの書類を提出させた。残業も休日出勤も記録されていない僕のタイムカードも提出されました。そして数か月後、担当者から店長や社員に聞き取り調査がされた。店長は、『この店にはパワハラも残業もありません。彼は普通に働いていました。ほとんど話さない社員だったし、一緒に働いたのは2ヶ月だけで、彼のことは良く知りません』と答えていた。
 結局、申請から8ヶ月程で、償いのお金を支払わない決定をしたという通知書が両親に届きました。納得できなければ異議を申し立て、もう一度、労災保険審査官に審査を求めることもできる。ただ、そうしても、おそらくは同じ結果になるに違いないのです。両親は断念した。そして彼らは、深く沈み込んで行った・・・・・」
 
両方の手のひらを上に向けて教卓に置き、しばらくうつむいてそれを見つめてから、授業を続ける教師。
 
「前世の僕は、本当に、最後まで馬鹿だった。証拠があれば労災申請は認められた。さらに裁判を起こし、あの会社に損害賠償請求することも出来たのです。会社には労働者の生命や身体の安全を確保する法律上の義務がある。長時間労働の強制やパワハラの放置はこの義務への違反となり、これにより労働者に損害が生じた場合、労働者は会社に損害を償うお金を請求できる。労働者が亡くなれば、その相続人、僕の場合には両親が、僕に代わって会社に償いのお金を請求できたのです。
 証拠さえあれば、労災申請により国から遺族補償一時金6百万強、遺族特別支給金3百万が支払われた。そして損害賠償請求により、慰謝料として2千万強、さらに僕が生きていれば将来得られたはずの給料から生活費と遺族補償一時金を差し引いた千5百万強をあの会社に支払わせることができたのです」
 
「うー・・・・・大人は、人が死んでからも、カネ、カネ、カネ?・・・・・大人の考えるのは、本当にカネのことばっか」と優太が皮肉な笑みを浮かべてボソッと言う。
 
「・・・・・あなたは廊下に立ってなさい」と教師が優太を見つめて強い口調で言う。
「はあ?・・・・・それってパワハラじゃ?」と優太が丸い瞳をパチパチさせて言う。
「うるさい馬鹿者・・・・・消えてしまった命を償えるものなど、本当はありはしない・・・・・それでも償いを求めるなら、償わせるには・・・・・それはお金なのです・・・・・そして、必ず償わせなければいけないのです・・・・・それに、あなたのお父さんが同じ目に会って死んだら、あなたはどうなるのですか?これまでお父さんの稼いでいたお金が入って来なくなる、あなたはお金がないのにどうやって生きて行くのですか?」と声を荒らげる教師。
「・・・・・うちのパパがそんな風になるわけない」と教師を睨み付けて優太が言う。
「そんなことはわかりはしない。わかるわけがないのです」と優太に向かって教師が言う。
 
 青白い額に右手を当てしばらく黙り込んだ後、授業を続ける教師。
 
「・・・・・それから、遺族が労災申請や裁判を起こすのは、お金のためだけではありません。長時間労働の強制やパワハラの放置があった、そして労働者が殺された。これが本当に起きたこと、遺族の思い込みや一方的な主張でなく、真実であることを労働基準監督署や裁判所という国の機関に認めさせる。そして、この真実を社会に伝えるために行うのです。
 あのレストランは有名ではない。だからマスコミに働きかけてもニュースにならず、真実は多くの人には届かないかもしれない。僕の両親や一部の人が、ネットで発信するだけかもしれない。
 けれど真実を知った人は、怒りを感じる。それは、労働者を奴隷のように扱い、長時間のサービス労働を強制し、お金を払わずにその労働の成果を奪い取る人間への怒りであり、悪意と暴力を行使した人間、それを生み出した人間、それを放置した人間への怒りであり、労働者を殺した人間への怒りです。
 そして真実を知った人は、怒りの中で、必ず問う。労働者を殺すレストラン、会社、社長、株主は、この社会に必要なのか?このレストランで食事をし、お金を払い、彼らに利益を得させる行いは正しいのか?このような社長や株主を野放しにしている社会は、本当に正しいのか?
 この問いが、人々の意識と行動を変えていくのです。サイコパスな社長、ディストピアのような会社を抑圧し、淘汰していくことにつながる。社会の仕組みが見直される。同じような死が繰り返されないようになる。だから必ず真実を伝えなければならない。遺族はそう考えて、心をすり減らしながらも、労災申請や裁判を戦うのです」
 
 しばらく息を整えてから、授業を続ける教師。
 
「・・・・・いいですか、みなさんがパワハラを受けたり、長時間労働に追い込まれたら、必ず証拠を残して下さい。死に至らずとも、病気になって労災申請や損害賠償請求をする場合にも証拠が要るのです。パワハラの日時、加害者の言動や受けた暴力の内容を克明に記録する。パワハラが予期できるなら録音もする。傷や痣の写真も残す。顔も一緒に写しておかないと他人の写真だと言われてしまう。長時間労働を強制されたら、実際に仕事を始めた時刻と終わった時刻、仕事の内容を正確に記録する。どれだけ追い詰められていても、必ず証拠を残して下さい」
 
「そんな目に遭うのは、アトム先生みたいないじめられっ子だけ。俺らがそんな風になるわけない」と優太がそっぽを向いて吐き捨てるように言う。
 
「そんなことはない。社会に出て、会社という閉じられた世界に投げ込まれたら、あなたもそうなってしまう可能性がある。誰にとっても他人事ではないのです。普通の人、どこにでもいるような人達が、パワハラや長時間労働で死んでいる・・・・・僕は意識体となってから、そういう労働者を山ほど見てきたのです」


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