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真の「○○したい」を引き出す人生史


構築論的理学療法と人生史

以前提案させていただいた、『構築論的理学療法』。
従来の理学療法と対比するうえで大きなポイントは、『人生史』である。

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『構築論的理学療法』の概観は以下の記事をご参照ください。

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では、理学療法の文脈において「人生史を語る」とは、どういう意義があるのか。

この記事では、わたし自身が自分の人生史を振り返ったときに感じたことを通して、人生史を語ることの意義を考えてみたい。

もちろんここで書いたことは、人生史を語る意義に関する「正解」はなく、一つ提案と捉えていただきたい。

自己との対話

過去を振り返るにあたって、現在わたしが感じている問題を起点にしたい。
それは、焦燥感だ。

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なんとなくいつも焦っている。
どう焦っているかというと、「何か自分の人生にとって意味のあることをしなくちゃ」という焦りだ。

何故こうした焦りが生じるようになったのか。
そのきっかけは、過去を振り返ってみても分からなかった。
でも、この焦りは「いつから」なのかは分かった。
それはなんと小学生の時からだ。

その当時はプロ野球選手に「なりたい」と夢見ており、その目標に関係があると(あくまで自分のなかで)感じたことだけをやりたい、という強い衝動のようなものがあったと記憶している。
でも、こうした自分自身に課した「制約」のようなものを窮屈に感じ(自分で勝手に決めているのに)、いつしかプロ野球に「なりたい」ではなくて「ならなくちゃ」になった。そのためには友達とは遊ばず素振りを「しなくちゃ」いけない。
そんな窮屈に耐えられず、「プロ野球選手になる」という熱は冷めてしまった。

思い返せば、わたしの人生はそんなことの繰り返しだったように思う。

と、ここまで考えて(振り返って)気づいた。

わたしの人生は、「したい」を「しなくちゃ」に変換してきた人生だったと。

「○○したい」は容易に「○○しなくちゃ」に変わってしまう

下の図のように、「○○したい」は容易に「○○しなくちゃ」に変わってしまう危険がある。

「○○したい」はどんどん「○○しなくちゃ」と変化し、溜まっていく。
そして「○○しなくちゃ」の容器がいっぱいとなり溢れたとき、精神的な不調が生じやすくなるように思う。

理学療法における「○○したい」と「○○しなくちゃ」

理学療法を開始する際の問診では、主に「ホープ」や「ニーズ」を聴取する。

「○○したい」=ホープ(hope)
「○○しなくちゃ」=ニーズ(needs)

臨床では表面上の言葉でこれを判断している。
たとえば、「○○したい」といっているからこれがホープだ、と。

でも、本当にそうなのだろうか。

先述したように、「○○したい」は容易に「○○しなくちゃ」に変換される。
さらに、自分自身が「○○したい」と表面上は感じていたとしていても、わたしのように無意識のうちに「○○しなくちゃ」に変換されていた、なんてこともきっとある。

つまり、何が言いたいかというと、臨床の場面において、表面上の「○○したい」ではなくて、真の「○○したい」を引き出すことが重要だということ。
それには、「人生史を語る」必要があると思うのだ。

わたし自身、人生史を振り返って、「○○したい」は容易に「○○しなくちゃ」に変換されてしまうこと、そして自分は本当は何がしたいのかに気づくことができたように思う。

問診で表面上の「◯◯したい」、つまりホープは聞きつつも、人生史の語りを聞くことでそのホープが「◯◯しなくちゃ」に変換されていないか、確認ができるだろう。

また、被ケア者が「◯◯しなくちゃ」と話している内容も、深掘りしていくと、元々は「◯◯したい」と思っていた内容だった、なんてこともきっとあるだろう。わたしが過去を振り返って気づいたように。

このように、人生史を語っていただくことで、表面上ではなく本当の意味でのホープを聞き出せる、もしくは一緒に創造していけるのではないか。
本当の意味でのホープを共有できて初めて、そこを起点にしてニーズを創造していくことが重要なのではないか。


これが、『真の「○○したい」を引き出す人生史』という提案である。


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ミントライム
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