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大審問官の問題圏

ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に、「大審問官の話」というものがある。この話は至る所で言及・引用されており、さまざまな解釈がある。今回はそうした解釈を紹介しながら、私なりに大審問官を読んでいきたい。

まずはあらすじを手短に述べよう。

カラマーゾフの兄弟には登場人物としてイヴァンとアリョーシャという兄弟がいる。大審問官の話では、簡単にいえば彼らは有神論か無神論かについて議論している。イヴァンは、神様がいるなら、罪のない児童がひどい目にあう児童虐待などはないはずだ、という。つまり彼は無神論派なのだ。しかしアリョーシャは有神論派(正確にはロシア正教の信者)なので、イヴァンはそんなアリョーシャを説得するため、大審問官という創作の話を持ち出す、というところから物語は始まる。

以下、話に入る直前のイヴァンの台詞である。

まだ時日のある間に、僕は急いで自分自身を防衛する、従って神聖なる調和は平にご辞退申すのだ。なぜって、そんな調和はね、あの臭い牢屋の中で小さな拳を固め、われとわが胸を叩きながら贖われることのない涙を流して、『神ちゃま』と祈った哀れな女の子の、一滴の涙にすら値しないからだ! なぜ値しないか、それはこの涙が永久に贖われることなくして棄てられたからだ。この涙は必ず贖われなくちゃならない。でなければ、調和などというものがあるはずはない。

ドストエーフスキイ『カラマーゾフの兄弟』第二巻 岩波文庫 米川正夫訳 72-73ページ

そしてイヴァンによる大審問官の話が始まる。

舞台は異端審問が盛んに行われる16世紀のスペインのセリビアで、そこにキリストが復活するところから大審問官の物語は始まる。いくつかの奇跡によって瞬く間に聴衆によって祭り上げられたキリストはしかし、その街の司教である大審問官によって捕えられてしまう。

ここでなぜ司教が本来歓迎すべきキリストを捕えたのか疑問に思うだろうが、ここがこの物語の肝である。つまり、キリストと大審問官の対決こそ、有神論者(というか神そのもののキリスト)と無神論者(を標榜するもそう成り切れない者)の対決、すなわちアリョーシャとイヴァンの対立に重ね合わされるのである。そう、大審問官は昔は熱心なキリスト教信者であり、司教にまでなるほどの有神論者であったが、現実を見るうちに、気づけば無神論者になってしまった男なのである。

そして夜、捕えられたキリストのいる牢屋に大審問官が近づき、キリストに話しかけ始める。

大審問官は言う。

おまえ(キリスト)は人々を自由にしたいと言うが、人間社会にとって自由ほど耐えがたいものはない。お前は人間に自由という苦しみを負わせたのだ。自由の獲得には忍耐が必要だが、それは心の強い強者だけが可能なものだ。残りの弱者は、自分の幸せのためなら喜んで自由を投げ捨てる者達なのだ。
おまえはその少数の強者達に自由を与え、その他の弱者の幸福を奪うのか。私は違う。私は自分の自由を投げ打つことで、多数の幸福を守るのだ。

穿った見方をすれば、これはキリスト教とローマ帝国の対立の構図とよく似ている。この話は後節のカテコーン論でも触れるが、ここで大審問官が言っているのは、「強者の共同体」とでもいうべき共同体の維持のあり方である。それはキリスト教と同時期に誕生し、長年キリスト教内部でもその関係性について議論されてきたローマ帝国的な共同体の維持のあり方なのだ。

そしてここに確率と功利主義の問題が見え隠れすることをついたのは、マックスウェーバー、ハンナアーレントなどである。功利主義とは「最大多数の最大幸福」と言われるように、個々人の幸福を「計算」し、それが「最大」になるようにするのが社会にとって良いとする考えである。そしてその「計算」をするにはデータを取る必要があり、必然的に「管理社会」が要請される。確かにここで大審問官が言っていることも、たとえ少数のエリートが忙殺されても、(自由のない管理社会を敷いて)統計的に大衆を幸せに導く方が良いという趣旨と取ることもできよう。

ここで大審問官の話の前にイヴァンが幼い少女の涙の話をしていたことを思い出して欲しい。ここで行われている児童虐待では、「その少女」が苦しめられる必然性はない。彼女はたまたまその環境に生まれ落ちてしまったのであり、その不幸は自己責任では解消できない確率的な「親ガチャ」なのだ。

そしてイヴァンはそうした自分の力ではどうしようもない確率の暴力を嘆いており、その解決として大審問官の言うような大衆の幸福を自由に優先させる世界観を提示したのであった。

ここで考えてみれば、確かに自分の責任ではない確率によって不幸になる世界に調和はないように思える。現代においてはイヴァン的な考え方は優勢でまず間違いないだろう。いくら確率的とはいっても、その系を管理し、その統計をとれば、その確率的不幸を最小限(あるいは確率的幸福を最大)にできるだろうという考え方は、現代においても経済学から果は量子力学まで様々な箇所で見られるし、その考えは有力だ。統計というのは、確立に意味を見出すことを一旦留保するということでもある。なぜ私が生まれたのか、なぜ私はこのような境遇なのかということの意味は一旦考えない、それが統計の流儀である。
(例えば量子力学においては、その確率の不確定性の解釈の問題は一旦保留とし、統計的にデータを取ってその確率が様々な分野で「使える」のならそれでよしとする派閥が大半だ)

もしこの物語がここで終わっていたなら、確かに現代は確率と偶然性が問題となる時代であって、それを見越していたように思えるドストエフスキーは凄いな、であったり、やはり「神=意味=大きな物語は死んだ」のであって、イヴァン=大審問官は正しいなあ、で終わるかもしれない。実際に、先のウェーバーやアーレントも、そうしたイヴァン的考え方が管理社会を生む事もあり得るという注意をつけながらも、結局はなんとなくイヴァン的な考え方に同意している面もあるように思う。

しかしドストエフスキーはこの物語の最後に意外な一節を残す。

話の最後、大審問官にキリストが軽いキスをし、大審問官は彼を解放するという終わりを迎え、さらに物語を語り終えたイヴァンもアリョーシャにキスをされ、アリョーシャは去るという終わりも迎えるのである。

キリストに去られた大審問官も、アリョーシャに去られたイヴァンも、逆に複雑な心境はますばかり、と言わんばかりの終わり方である。

そう、この終わりをもってドストエフスキーは、無神論になりきれない、神の存在を否定しきれない、すなわち、この無秩序で確率的な世の中に、神という意味、神という解釈、つまりなんらかの統一的で調和のある物語を見ることを捨て去りきれないイヴァン=大審問官を描くのである。

ここで突然私事になってしまうが、私がこの大審問官の物語に興味を持った経緯をお話ししたい。
それは上記に挙げたような思想家の本を読んだからでも、ドストエフスキーを読み進めていたわけでもない。私はこの物語を、ある人から教わったのである。

彼は統合失調症という精神病を患っていたが、その中でとてつもない量の読書をしていた。(彼は1日に数ページしか進まないと言っていたが、そんなことはないように私には思えた)そしてその彼が、私にこの大審問官の話を教えてくれたのだ。以下に、その彼のこの大審問官の物語に対する解釈を提示する。しかし、実は今とある事情から私は彼と連絡も取れない状況にある。なのでもし彼がこのnoteを読み、ここに彼の考えを掲載することを嫌うなら、すぐに連絡をして欲しい。その場合私はすぐにでもこの記事を消そうと思う。

さて彼は、先に引用したイヴァンのアリョーシャに対するセリフの中にある「神聖なる調和」について、以下のように語る。


ぼくの考えでいうと、調和というのは他人や世界とつながるために必要な契機だ。つまり、ぼくの個人的な経験に照らし合わせて考えると、ぼくは18歳ごろから離人症といって、他人や世界が存在しているという実感を失うようになった。そこで、他人と積極的に話もした。引きこもりがちなぼくを外の世界に引っ張り出そうとする知り合いも何人かいた。でも離人症は精神の病気なので、外に出て人と話せば解決するというような簡単な問題ではない。どうしても医学的な介入が必要となってくる。医学的な介入か、あるいは宗教的介入か。

ここでの宗教とは、人間が一人で世界と向き合うというくらいの意味を指す。ぼくは一時期、20歳ごろから二年間ほど、精神科の通院をやめた。それも主治医と話し合うことなく、勝手に行くのをやめた。その二年間の間に自分がとった、離人症への対処法は、精神科の主治医を間に置くことなく、自分が世界と直に向き合うということだった。つまり、自分と世界との間に主治医のアドバイスだとか、精神薬の作用だとかが介在してしまうと、自分の経験する世界はフィルターのかけられた世界となり、純粋なものではなくなる。自分が現実感を取り戻すためには、世界と直に、裸で接触する以外にないのだとその当時は考えていた。

そういう世界と単独で向き合うという姿勢は、宗教的といってもいいんじゃないかと思う。そして、単独で世界と向き合うことで、ぼくは自己調和するのではないかと思った。自己が調和を取り戻し、自分の経験する世界もまた調和を取り戻し、調和した自分は調和した世界と調和した接触を取り戻すことができるようになるのではないか。

つまり、自己が円満となり、調和することで自己が世界と調和的に触れあうことができるようになったとき、ぼくは他人との間にも、心の触れあいを感じることができるようになるのではないか。

つまりぼくにとって、調和ということが、自己調和、世界調和ということが第一の問題だった。そして、ぼくがいうその調和というのは、おそらく神秘主義的な経験、いってみれば見神のような経験にもつながるのだと思う。

『カラマーゾフの兄弟』のイヴァンの言葉の中では、「そんな調和」は親から虐待され孤独に苦しんでいる小さな女の子の一滴の涙にすら値しない、ということを言っている。では、イヴァンは神秘主義的な自己一致的な調和をどのように考えているのだろうか。

ゾシマ長老(イヴァンとは違い、どちらかと言えばアリーシャ・キリスト的な自由・調和に重きを置く考えを持つ登場人物)は、一切は大海のようなものであり、他の一端に触れれば、もう一方の他の一端に触れるのだ、という意味のことを言っている。また、一人で死んでいく人たちのために祈りなさい、とも。

ぼくの考えでいうと、ぼくが他人のために祈るとして、その祈りが少しでも力を持つためには、その祈りが真摯なものでなくてはならない。真摯な祈りとは何か。真摯に祈るためには、自己が調和している必要があると思う。自己と世界、他人との間に断裂がある状態というのは言い換えれば孤独ということであって、他人のために祈るとき、この断裂を、孤独を克服しなければならない。

ゾシマ長老の昔話に出てくる慈善者ミハイルは、世界同胞が実現されるためには、人間がすべての人に対してほんとうに兄弟同様にならなくてはならない、人間の孤独時代というものが閉ざされなくてはならない、ということを言っている。

ともあれ、ぼくの考えでいえば、調和ということは、自分自身が幸せに円満に生きるためにも必要なことだし、結局ぼくは調和ということを、調和を実現することを考えることなしに幸せに生きることはできない。ぼくが調和的に生きられれば、結果的に誰かの役に立つこともあるだろう。人一人にできることには限界がある。上に引用したイヴァンの言葉にも、とても共感できるところがあるけれども、ぼくが実践しているのはゾシマ長老の立場だ。

僧侶はしばしば孤独のために非難せられる。『貴様は自分一人を救うために、僧院の壁の中に蟄居して、人類に対する同胞的奉仕を忘れたではないか。』とはいえ、果して誰が同胞相愛により多く努力しているか、それは少し経ったらわかることである。なぜなれば、孤独の中に籠居するのは我らではなくして、かえって彼ら自身であるのに気がつかぬからである。

同 209頁

つまり、ぼくは自分一人を救うために、自己調和ということの実践について考え、試行錯誤している。結果として、それが他人のためになることもあるかもしれない。


私は彼の言葉に強く共感した。

もちろんイヴァン=大審問官のように、この確率分布でしかない現実に半ば諦めるのもいいかもしれない。その「ガチャ」に不平不満をいいながら、あたかも自分はその確率をシニカルに受け入れているように振る舞い、統計的な操作による功利主義を標榜してもいいかもしれない。あるいは大審問官もどきとして、本当のエリート層(インテリ)ではないにもかかわらず、いやそれどころか自分は少数派であるにもかかわらず、大審問官(エリート層)のように振る舞って、最大多数の最大幸福のためには、税金から自分のようなものが生活保護は受け取れないなどと言って、一方で確率を受け入れながらもう一方で自己責任論を展開し、自分で自分の首を絞めているうちはまだ良いのかもしれない。

しかし、そのシニカルさがいきすぎて、本当に精神の調和を欠いてしまった者からの叫びに耳を傾けなくてはならない。
何度でも言いたい。適度にシニカルになりながら、自己保身を図れているうちはまだいいかもしれない。だが、本当のシニカルさの極北からの声に耳を傾けたことがあるだろうか?その声は自分の中からも聞こえてきはしないか?

この確率的で、意味などないとされ、そして自己の調和さえも危ぶまれる現代においてこそ、改めてアリーシャ=キリスト=ゾシマ長老的なあり方は見直されるべきではないか。私はそう強く思う。

意味のない世界で、それでもあえて意味を探すこと。

錯綜し、発達障害の時代と言われ、否定神学的な人間観が否定されかかっている今こそ、そうした意味を、もう大きくなくても、そして物語でなくてもいいから、ただ意味を、意味を、なんとか探っていくことはできないのだろうか。

いや、むしろ我々は大審問官的なもの、イヴァンに毅然として拒否を突きつけなければならないのではないか。

そのことを詳しく探るため、最後に、もう1人大審問官に言及している学者、マッシモ・カッチャーリを紹介してこの記事を終えたい。彼は、『新約聖書』中の「テサロニケ人への手紙2」に登場する「カテコーン」という謎めいた言葉に対する研究の中で、大審問官について言及する。

彼は以下のように言う。(趣旨抜粋)

「大審問官の伝説」は、もろもろのカテコーン的な形態の歴史の最後の子午線が表象されている。

彼によれば大審問官は、カテコーンの最後の子午線なのだから、ここでカテコーンについて考えることは、すなわち大審問官について考えることでもある。

カテコーンとは「抑止するもの」の意味であるととりあえずは言える。では何を抑止しているのかと言えば、それは終末の前に訪れるとされる不法のもの(アノモス)を抑止しているのである。終末、出来事を遅らせるものとしてのカテコーン、ということである。

ここで簡単に考えれば、不法のものを抑止するものは、法(律法・ノモス)である。そしてそれは不法のものを抑止し、終末(出来事)を遅らせているのだから、良いもののように思われる。しかし事態はそう単純ではない。なぜなら、それは不法のものを白日の元に晒し、終末の際に最後の審判でその不法のものが裁かれるのを阻止しているとも考えられるからである。

改めて考えよう。カテコーンとは、不法のものを阻止するもの、いや、もはや言い切ってしまってもいいかもしれない、それは法であり、規範であり、権力である。

事実、テルトゥリアヌス以来のキリスト教神学の伝統解釈も以下のように考えていた。

不法のもの=反キリスト
カテコーン=ローマ皇帝(男性形の時)
      ローマ帝国(中性形の時)

ここでローマ帝国や皇帝は、不法のものを抑える権力システムであり、法である。

あるいはこうも言える、カテコーンはコスモス(秩序)
であり、不法のものはカオス(アンチコスモス・無秩序)である。

蛇足かもしれないがさらに言えば、「現代国家理論の重要概念はすべて世俗化された神学概念である」とさえ言ったカールシュミットは以下のようにも述べる

キリスト教的中世の王国が存続するのは、カテコーンの思想が生きているかぎりにおいてのことなのだ。

コスモスたるカテコーンと、不法のものたるアンチコスモス、それは表裏一体である。アガンベンに代表される思弁家達もひたすら言い続けている通り、法と法でないものは互いに互いを支え合っていて、コインの表裏である。不法のものがあるから、アンチコスモスがあるから、法が成り立ち、秩序が生まれる。

ここで我々は当初の目的に立ち返らなければならない。大審問官的なものとはなにか。カッチャーリによればそれはカテコーンの最後の子午線であった。そして今まで見てきたように、カテコーンとは法であり、規範であり、権力であり、無秩序と表裏なす秩序であった。無秩序、それはまさに先に述べた確率的世界観である。すべてはたまたま選ばれたものであり、意味はない。秩序はない。全ては「ガチャ」である。

そして出来事の到来を無限に遅らせるには、神の復活、意味を見出すことを無限に遅らせる限りは、大審問官のようにその統計を取り、最大幸福を望むしかない。

さらにカッチャーリの解釈に耳を傾けてみよう。彼の解釈によると、大審問官が体現しているのは「人民と反キリストのあいだのあらゆる媒介をいまや破壊してしまったカテコーン、したがって、あらゆるノモスを壊滅させようと志向する完全な革命家として客観的に作動するカテコーン」ある。
カテコーン的エネルギーがすでに使い尽くされてしまったことを自身の発する言葉自体が示しているにもかかわらず、そのエネルギーをなおも所有しているものと思いこんでいるもの、それが大審問官である。

彼の著書の解説から引用しよう。

もはや抑制できなくなってしまったカテコーン最後の子午線、大審問官が溢れる時代には、なにが起こるのだろうか。エピメーテウスの時代の到来。これがカッチャーリの答えである。
エピメーテウスの時代。それは、カッチャーリの説明によると、休戦もなければ、いわんや講和もないまま、危機から危機へと間断なく移行がなされていく、永続的な危機の時代である。そこでは、主権者は解消しがたく多頭的な相貌をしている。そして、意味あるあらゆる問題は技術的-行政的な形態で表明されなければならず、技術的-行政的な装置の力をつうじてのみ解決可能なものとなりうるという事実への揺るぎなき頼に支えられた、その主権の構成員たちに共通する世界観は、構成員相互のあいだの抗争を緩和するどころか、たえずそれを激化させようとするのだった。
しかも、カッチャーリの診断では、まさにそのようなエピメーテウスの時代こそは、今日のヨーロッパが迎えている時代にほかならない。

そして我々が見てきた通り、それは今日の日本であり、今日の世界の様相でもある。

カテコーン最後の子午線、大審問官。
我々はまさにイヴァンのように、この大審問官の問題圏を前にして苦悩している。

この問題にどのように決着をつけるのかは、我々個人の手に委ねられている。


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