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アジールとしての「トー横」

私にとって、2017年の「トー横」というのは間違いなくアジールだった。まだ「トー横」という単語もそこまで流行ってはいない時、あそこに集まったあの人達を超える衝撃に、私はまだ出会えていない。

「トー横界隈」と呼称されるような歌舞伎町に集まる若者に代表される、現代の若年層に潜む精神病理について、考えたことを話したい。

 さて、引用から始めさせてもらうと、マタイによる福音書の22章39節に「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉がある。単純にこの言葉を理解すれば、「隣人を愛するには自分を愛さなければ始まらない」と言っているように思う。自分を愛していなかったら、隣人を自分の「ように」愛することはできないからだ。つまり、「自己愛は隣人愛に先立つ」と言っているように思える。今ここで自己愛(ナルシシズム)という言葉が出てきたので、その系譜を見つめなおしてみよう。まず踏まえるべきはやはりフロイトなのであろうが、ここではその少し前から見ていく。私の勉強の限りでは、まずイギリスの優生学者ハヴロック・エリスが自慰行為に没入する女性を「ナルシスティック」というところからこの言葉は始まる。これを受けてドイツの精神科医パウル・ネッケが「ナルシシズム」という言葉を使い、それがフロイトの『性欲論三篇』に採用されるという流れだ。なお、ここで深くは触れることができないが、宮沢賢治がハヴロック・エリスの著書『性の心理』を読んでいたのは有名な話である。では、このフロイトに帰結したナルシシズム理論はどのようなものか。斎藤環氏の要約にそって簡単に言えば、生まれたての赤ん坊は自分の世界しかない、つまり自分の自己愛しかないが、それが次第に他人も自己愛を持っているということに気づき始め、間主観性を帯びてくる。そうして自己愛は成熟し社会性を帯びたものになる。といった理論と要約できるであろう。

 そして次に踏まえるべきはフロイトの自己愛の理論の理解におけるラカンとコフートの対立でしょう。これは先に述べた斎藤環さんの著書で私は知ったので、ざっくりとした理解でしかないですが、フロイトやラカンはこの自己愛を否定的にとらえていたそうだ。ラカンの言葉を借りれば、自己愛は鏡像段階を通じて生まれた想像界に属するもので、それは克服されるべき幻想であるということになる。かみ砕いていえば、私たちが自分だと思っているものは鏡に映った幻影・偽物で、そうやって「自我を鏡像の中に疎外」し続けても真の自分を見失うばかりですよ、というわけでしょう。では真の自分ってなんだよ、と言いたくなりますが、その話は一旦おいておいて、コフート側の意見に耳を傾けると、彼は逆に、「自己愛の成熟の過程こそが人の人生である」と考えていたようです。そしてその成熟において大切になるのが、他者(先ほどのマタイの福音書的に言えば隣人)というものだというのです。まず赤子は母親に無条件に承認されることで「自信」を得、次に理想化した親のイメージに「理想」を見る、そうして人間は「自信・向上心」と「理想」をもって「技能」を取得しながら人生を歩んでいくというわけです。そしてその自信や理想が母親の接し方の問題などで歪んでトラウマとして形成され、欲求不満を適度に持つことができなくなる、つまり「技能」が獲得できなくなることが様々な問題を生み出す、と考えるのです。そして成長過程において「なんだかんだ受容してくれる他者」の存在がないと、その問題はさらに加速するというわけです。最初に述べた「自己愛は隣人に先立つ」にかぶせていえば、「健全な自己愛は健全な他者依存を可能にする」といってもいいでしょう。ここで一旦まとめておくと、四分類ができます。1自己愛も隣人愛も健全、2自己愛は健全だが隣人愛は不健全、3自己愛は不健全だが隣人愛は健全、4自己愛も隣人愛も不健全、です。
 それで、ここに「トー横」問題を接続します。私は、歌舞伎町に2系統の人が来ていると思う。それは、A.進学校に通っていて普通に進めばそれなりに良いといわれている大学に入れそうだが、平凡な日常の反復や入れ替え可能な自分(メリトクラシー社会下での「勉強ができれば誰でもいいんだ」という直感)に対するやるせなさから歌舞伎町に来る人、B.本当に家庭環境がもとから荒れていて、どうしようもなくなってくる人、の2パターンです。これは私の実感でしかなく統計調査をしたわけではないですが、知り合いの歌舞伎町に通っていた方にも「意外と最後は普通に良い大学に行く人がいたりする」という発言をなさっている方がいたので、あながち当たらずとも遠からずではないでしょうか。で、この2分類を先の4分類に当てはめると、Aの人はもともと親に愛されていたので(そもそも進学校にいれてもらえ、中学受験までさせてもらえているわけですし)自己愛は健全だが、メリトクラシー社会によって親が「変質」し、それにより受容してくれる他者の不在が生じ、隣人愛が不健全になったタイプ、つまり2のタイプの人で、Bの人はそもそも親にも愛されず自己愛は不健全だし、受容してくれる人もいないので隣人愛も不健全、つまり4のタイプなのではないでしょうか。そして、彼らの共通点としての「隣人愛の不在」を埋めるために彼らは歌舞伎町という場に集まるのではないでしょうか。つまり2の人は1のタイプに、4の人は3のタイプになろうと歌舞伎町に集まるわけです。
 さて、ではこの「隣人愛の不在」「受容する他者の不在」に直面した時、人はどのように行動するのでしょうか。ここで参考になるのが、先ほどから何回も登場している斎藤環さんの「自傷的自己愛」という概念だと思うのです。しかしその話に入る前に、まず自己愛(ナルシシズム)の由来であるナルシスの話をしなければなりません。この話はもとはギリシャ神話なのですが、例えばオウディウスの『変身物語』第三巻所収の『ナルキッソスとエコー』などにもみられ、非常に馴染み深い普遍的な象徴となっています。ナルシストの語源とも言われ、ナルソスの泉ということもあります。少し話がそれますがこの「鏡・泉」というのは見えないものが見えるようになる機構であるとラカンは考えていたし、実際神話はそう読むべきだと私は思います。つまり、結局「真の自分」は見え「ない」ものなのですが、それが鏡面に映ると見えるようになる、と考えるべきだということです。真の自分は見えて、ただそれが鏡に映ってまた見える、というわけではないのです。話が込み入ってしまいますが、一応この考えの補強をギリシャ神話と聖書以外に挙げておくと、キリスト教では異端とされるグノーシス主義の最重要資料の一つ『ナグ・ハマディ文書』に3つほど写本が入っている『ヨハネのアポクリュフォン』という話において、始原に存在していた唯一にして至高の神が霊の泉を見たときに自己の鏡像たるバルベーローがアイオーン(永遠)として生まれるという描写があるのですが、ベルリン写本によればこのバルベーローは唯一神の最初のエンノイア(思考)で、「そして彼女(バルベーロー)(母)は彼(唯一神)(父)を思考する。」とかいてあるのです。つまりそもそも唯一神は思考すらないもので、鏡に映ることでその中に思考が生じ、それで初めて彼(唯一神)を考える(見る)ことができるようになった、ということ、つまり、太田俊寛の言葉を借りれば、この唯一神は「否定神学」で記述されなければならない存在である、もっと言えばある種見え「ない」、「無」のようなものであるということなのです。安易につなげることは避けなければなりませんが、結局は無神論と表裏なのです。これだけだと神話的な立場からの説明になってしまってばかりなのですが、このように鏡に映る前の物を見えないものとみなした人は別に私が最初というわけではもちろんなくて、クロソウスキーという人も似たように考えていました。とはいえこの人も神話の影響を強く受けていますし、ラカンはこの人から多大な影響を受けているので、果たしてこれが論理の補強になっているかは怪しいのですが。
 そして、自傷的自己愛というのはまさに自傷によって自己愛を形成すること、先の神話の言葉を借りていえば、泉に映った「美」に見とれてしまったナルキッソスとちょうど正反対に、泉に映る「醜」を罵倒するということで逆説的に自己愛を形成する行為なのです。つまり「マゾヒズム(自傷)はナルシズム(自己愛)の一つの戦略でしかない」ということなのです。そしてもう少し踏み込めば「存在」とは、この「鏡・泉」で「無・神」たる「他者」を「模範」として「模倣」しながらも、「疎外」され、「障害」が立ちふさがるがゆえに「模倣」行為を「反復」しなければならない、ということだと思うのです。いや、実はさらに一歩、できればもう一歩「存在」とは何かということに踏み込んでいきたいのですが、それをしてしまうと今後記事に書くことがなくなってしまうので、ここではいったんここでやめておいて、話を戻すと、ここにルネ・ジラールの議論を接続できると私は思ったのです。というか、斎藤さんがジラールに触れないことが不思議なくらい彼の理論はジラールの理論に「あくまでも部分的にではあるものの」非常に近いと思ったのです。が、話がややこしくなるので一旦斎藤環さんの自傷的自己愛の話を軸にして、その後ジラールの話に移りたいと思います。では斎藤環さんはいったい何と言っているのでしょうか。まず彼はその著作の中で、「自己愛」という言葉の「ちょうどよさ」に触れています。ラカニアン(ラカン派の人のこと)がユング派を「自己愛的」として切り捨てること(そもそもそのこと自体がラカニアンの自己愛さが今度はサディスティックに表出しているわけですが)に「しびれた時期があった」という斎藤さんは、そのような自己愛的といって切り捨てる行為(私には連合赤軍の「総括」という言葉が思い浮かびます)を生み出してしまう「自己愛」という言葉はむしろ「愛」や「自己肯定感」というべきではないのかと悩みます。が、「愛」は広すぎるし「自己肯定感」は狭すぎると考えます。で、ここで種明かしというわけではないですが、私が最初に引用したマタイの福音書と四類型の話は、この斎藤さんの記述を受けて、私が試しに広すぎる概念である「愛」を「自己愛」と「隣人愛」に分けてみました、「愛」を「自己愛」の代わりに使って斎藤さんの話を読み替えてみました、という実験なのです。斎藤さんは自傷的自己愛の話にしか触れませんが、身の程をわきまえずに言えば、自傷的隣人愛にも触れるべきと私は考えるからです。いや正確には自傷的自己愛と自傷的隣人愛の「境界」こそ語るべきものな気がしているのですが、それはいいとして、とにかくこのように「自己愛」というちょうどいい言葉をもって斎藤さんは語りだすわけです。そこでは先ほどのコフートの「自信」と「理想」が、(あるいは私の言い換えでは「自己愛」と「隣人・他者愛」が)「自信」と「プライド」に言い換えられます。つまり自傷的自己愛をしてしまう人は、プライドは高いが自信がない、理想は高いが自信がない。自己愛は形成されているが隣人愛がない、もっと言えば自己愛に見合う承認がない人なのです。つまり、おれは凄いやつなのに、どうも成果が出ない。承認されない。でもだからといって俺が凄いやつじゃないなんて認めたくはない。そんな人なのです。
 ここで私の良いのか悪いのかわからない癖ですが、文学から引用すると、「俺はひとりなのに、やつらはみんないっしょだ、」(ドストエフスキー・地下室の手記)「僕は我が身を喰らい尽くす、むなしいエネルギーのありとあらゆる責め苦を受けながら生きていた…おそらく他人に自分を理解させることに絶望してしまっていたのだろう。いやあるいは理解されすぎるのを恐れていたのかもしれない。」(バルザック・あら皮)ということなのです。(ただしバルザックもドストエフスキーもこんなところでとどまる文学ではないということをここで言っておきたい。ある種の霊性としてそれを超えるのです。バルザックは『知られざる傑作』等において、そしてドストエフスキーはこの後のジラール論で明らかになる通りに)
 また脱線してしまいました。つまるところ、こうして他人の承認が得られない中、なんとか自分の自己愛を守りたい、創出したいという悩みの果てに、「正気の証明」という一点において承認を得ようと自傷行為が始まるのです。つまり、私は駄目である。だが駄目なやつであるとこうして自分で(メタ)認識できている、その一点において、私は凄いやつである。という論法です。「自分で自分をとことん貶めてみせる瞬間には奇妙な快感がある」と斎藤さんは言います。つまり根本のところではやっぱり自己愛、自分を許している感覚があるのです。(正直に言えばこんなに言っておきながら私もこのタイプです。)自分は駄目だダメだといいながらそういえている時点で自分は正気だし駄目じゃない、と許している。自分がダメであることに関しては誰よりも自信がある、そういう感覚です。これはまさしく、自殺したい自殺したいと言いながら自殺したいくらいに追い込まれている自分は自殺するには惜しい人間だと思っている卑しいナルキッソスなのです。自殺したいしたいという人ほど自殺しないものです。自傷し、リストカットを繰り返しながらも、リストカットしていることで自分はまだ「正気」であることが認知できているから「大丈夫」。
 しかし、そうした「死なないため」の手段であるはずの自傷行為に、自傷に伴うエンケファリン(脳内麻薬)がかかわり、実際に薬に手を出したならそれも加わって、さらに強い自傷になっていく。どんどん自分を自分で疎外し始め、自傷がやめられなくなっていく、自分を許す行為だった自傷が加速していき、いつしか「本物」になっている。「神」を「模倣」したはずの「鏡・泉」の中のナルキッソスが、バルベーローが、いつしか神そのもの、「本物」「アイオーン(永遠)」になっているのです。しかしたいていの場合は本物(永遠)になる前に「自傷」に負けて死んでしまうのですが。
 ちなみに、今話題になっている歌舞伎町での「地雷系キャラ」の「量産化」(思えば地雷系を量産型ということもあるわけですが)に対して、(私をご存じの方は)私が過去にいった「地雷系」という「キャラ」を「模倣」する行為が「量産」されている、というのは今言ったことを踏まえていて、つまり、代替可能である(成績が良ければだれでもいい)「鏡に映りこむもの」でしかない、他者の写し身でしか存在できない自分を、歌舞伎町にいるごく少数の「本物」、つまり先のBタイプの人を「模範」として「模倣」していった結果、自分も「本物」になってしまうというナルキッソスの悪循環に陥っているのです。これ以上言うと詩的すぎる、やりすぎかもしれませんが、そうした「鏡」あるいは「泉」の「内部」たる「場所」が歌舞伎町で、実際そのような鏡・泉の内部に入るための水面・鏡面という「境界」に思いをはせたとき、自然と、「境界」としての「門」が、あの歌舞伎町一番街のきらきらと輝く「門」(アーチ)が私には見えるのです。
 さて、長くなりましたがここまで考えていたときに私がふと思い出したのが、先ほどから何度も言っているルネ・ジラールの「暴力と聖なるもの」に代表される作品群でした。ちょっと長くなり過ぎているので急ぎ足でいくと、ルネ・ジラールさんはセルバンテスやフローベル、スンダール、プルースト、ドストエフスキーといった人たち(自我の主権なるものへのロマン主義的信仰を捨てることに成功した者たち)の作品やドン・キホーテなどを議論の俎上に載せて、模倣や欲望という概念や集合体、集まるとは何か、暴力とは何かについて鋭い議論を残した人です。そう、今までの議論を力ずよく補強しながら、そこに欠けていた「集まる」あるいは「集る(たかる)」「共同性」「共同体」というピースを埋めてくれるのがこのジラールさんの議論だと思うのです。しかしそこに立ち入るには、まず神なき時代であるという観点、そして接続過剰な時代であるという観点から今までの議論を総点検する必要があり、その過程でジラールさんの議論と接続できると私は思うのです。つまりもう「神は死んだ(ニーチェ)」、「近代」という「亡霊さまよう(小坂井敏晶『神の亡霊』参照)」時代なのです。死せる神の一人子!(ジラール・『地下室の批評家』)そして、それは、文学における先のロマン主義的信仰を捨てることに成功した者たちのように、正しく「超克(廣松渉『<近代の超克>論』参照)」されなければならないのです。そしてそれこそが、本当の意味の、「私にとっての近代の超克」なのだ、存在の革命なのだと私は言いたいのですがそれは別の話。
 いつの間にか話が脇に逸れたので、もう一度論を戻して、(今やるべきはこの記事を終わらせることだ)まずは神の不在についての話をしようと思います。そもそも大半の人が神様を信じていた時代であれば、(といってもつい最近の話ですが、)最大の他者・隣人は神であって、その神様から承認をもらうことに集中していればよかったわけです。どんなに実生活で疎外されようとも、むしろ疎外されるがゆえに、きっと神の試練に違いないといって耐えることができた。神を「規範・模範」として「戒律・障害」を設け、それを通して「神」への「模倣」を、神との「合一」を目指せばよかったわけです。(日蓮なんかもこんなマインドで諸宗を破折して回ったんでしょうか)しかし幸いというべきか不幸にもというべきか近代以降、科学が発展し、基本的に神様を信じることが難しくなった。(正確には昔から日本人は「合一」を目指すような神様はいなくて、それゆえに「つぎつぎとなりゆくいきほい(丸山眞男)」マインドでなんとか耐えていたのですが、これもまた近代化によって、「合一」を目指す西洋思想、自立した個人という個人主義が日本に入ってきて、全共闘の世代くらいからもう若者はそうした一身独立を目指すように一斉に「近代化」されてしまったわけです。)そうなるといったい何に向かって模倣していけばいいのか、人々は路頭に迷ってしまいます。そこで「神」の代わりにいろいろなものをそこに代入していきました。もしかすると「母」をそこに代入した娘もいたかもしれないし、「父」を代入した息子がいたかもしれないけれども、現代ではその中の一つに、もしかすると「真の地雷系であるBタイプの人」を代入したらしっくり来た人たちが多くいたのかもしれません。先ほどの話を神の不在という視点からざっくり読み直すとこんな感じです。
 次は接続過剰なネット、SNSの時代でもあるという観点から先ほどの話を解題してみます。最近はコロナウイルスで「リモート化」ということが話題になっていますが、私はこれはコロナよりずっと前から始まっていた現象がコロナ禍で表面化しただけだと思います。つまりリモート、顔が見えないコミュニケーションというのはある意味でネットが台頭したSNSの時代である現代においてすでにあった話で、ただコロナ前は対面のコミュニケーションが一応存続していたからそのリモート性が隠蔽されていただけだと思うのです。言ってみれば当たり前の話です。で、この「リモート化」が呼び起こす問題は少なくとも大きく分けて3つあると私は思います。1つ目は、顔が見えない分、その人のパーソナリティがそのままコミュニケーションにに反映されやすいという点、もう1つは承認にかける労力が以上に低くて済むので、相手がどのくらい手間暇をかけてくれたのかわかりにくく、承認する・されるのハードルが異常に低いという点、最後は最も根源的で、対面すること、集まることの暴力性が消失した点です。なんのこっちゃという感じだと思うので、順に説明していきます。
 まず一つ目、突然ですが、あなたの周りに屈託なく自己愛が強い人っていないでしょうか。悪気なく強いというか、無邪気に自慢してくる人というか。神話に即して語るならスサノヲ的というか出口王仁三郎的というか。周りの目を気にしてないんじゃないかこの人、でもなんか憎めないな、と思うような人です。これを私はだいぶ前に別のところでで人格系と発達系として老松克博さんという方の議論を持ち出してきて語ったのですが、これを今回の自己愛の文脈で言い換えるなら「自覚なしに自己愛的なふるまい方をする存在」=「根拠なき自信を持つもの」とでもいうべきでしょうか。そして大体の場合、この人はいい親から幼少期に強く愛されて育っているか、ADHD・ASD気質を持っていたりするのです。(今ここで言い切っていますが、もちろん例外はあるし、こんな言い切りはある意味で差別的かもしれません)こういう人は憎めない、いやそれどころかむしろ好かれるものなのです。いい意味での子供性を持っているとでも言いましょうか。駄々をこねても許せてしまうところがある。それは悪いことでは全くなくて、その人のパーソナリティなのだけれど、いまSNSにおいてこのスサノヲ的自由奔放さを持った人にアマテラス的パーソナリティをもった人が配慮しすぎてしまう問題が非常に頻繁に起きている気がするのです。もっと端的に言えば、「根拠なき自信を持つもの」の各種SNSコミュニティでの台頭よってその人に道を開ける「承認弱者」が量産されている。そしてもっと言えば、それが優性思想のセルフスティグマを生み出す温床になっている。自分を自傷的にけなす人は、自分を含めてほかの弱者にも容赦がない。稼げない俺もダメだけど、それに気づかずに無邪気に生活保護をもらっているお前はもっとダメ、自傷的にならず開き直って生活しているように見える障害者は殺した方がいい、そういう論理になっていく。自分のだめさを知っているという一点において自信がある、自傷的自己愛気質の人は、社会を変えていこうとはならない。むしろメリトクラシーに飲み込まれ、新自由主義に飲み込まれて、その中での競争に負けた自分にものすごく落ち込んでいる。神は死んで、自己責任という言葉が生まれたとき、「運も実力のうち」で、あなたがいま稼げないのは運命や神、社会制度といった外部の共同体や規則のせいじゃなくてあなたのせい、自己責任ということになったのです。全共闘が挫折して、社会のせいにすることは難しくなった。勉強ができないのはあなたが努力をしないから。でも障害だけはそうとも言い切れなくて、それが悔しい。くやしいから障害を持つものが自分のだめさに気づいて自殺したほうがいい。でもやつらはしていない。じゃあ、殺すしかないじゃないか。安月給で介護をしている俺もダメだが、そんな俺をこき使っていながら自分がダメという自覚のない障害者は殺した方がいいじゃないか。そうして優性思想に走っていく。または、そこまでいかなくとも、いま自己責任に耐えかねて、かといって社会や神のせいにすることもできず、この自由競争の社会の片隅で、なんとか「親ガチャ」のせいだった、と意見を絞り出している人がたくさんいる。つまり最も最小の共同体ともいえる家族のせいにしていくしかない、あるいはそれすらもできなくなっている人であふれているのではないか。私はそんな気がしているのです。
 さっきからスサノヲだのアマテラスだのよくわからないよという方もいるかもしれないので、ここで簡単に古事記について本当に概略だけですが述べておくと、まずスサノヲもアマテラスもイザナギの禊(みそぎ)でツクヨミと一緒に3つ子として生まれた存在で、スサノヲは鼻から生まれた嵐の神、アマテラスは左目から生まれた太陽の神です。(ちなみに、母(イザナミ)の死後、父(イザナミ)の頭部から生まれるというのはギリシア神話のパラス・アテーナ―の誕生と同じです)で、ここでイザナギは彼ら3人にそれぞれ高天原(アマテラス)海(スサノヲ)夜(ツクヨミ)を任せるというのですが、素直に従うアマテラスに対してスサノヲは母が恋しくて泣いてばかりなのです。それ以降も、ことあるごとに「耐える姉たるアマテラス」対「自由気ままな弟スサノヲ」という構図が描かれます。そしてついにアマテラスは天岩戸に「ひきこもって」しまうのです。しかしそこで困ったほかの神々たちによって、アマテラスは天岩戸から連れ出されるのですが、その際に使われた方法は、まずアマテラスよりすごい神様が来たと嘘をいって、アマテラスが気になって岩の隙間からのぞいた時、「鏡」をおいて、アマテラス自身に反射した自分のすがたをみせるのです。すると本当に自分よりすごい神様が来たと思ったアマテラスが天岩戸から出てくるのです。そう、アマテラスは「自覚なしに自己愛的なふるまい方をする存在」であるスサノヲにふりまわされ、ひきこもって、閉ざされてしまうのですが、最後はまさに鏡に映った自分を見て、ひきこもりから出てくる、開かれてくるのです。
 これだけきくと、天岩戸に引きこもらないようにするにはどうしようかという議論をすべき気がします。しかしここですぐに「閉ざされ」についてそれが人間に絶対必要なものであるともいっておかなければならない。少しというか多分ものすごく話が脱線しますが、人は「閉ざされ」なければならないのです。これは大澤真幸も言っていることですが、少し私なりの解釈でいうと、エレベーターは基本的に「閉」ボタンがなくても機能するのです。エレベーターは「開」ボタンがあれば、その数秒後に閉じるという設定さえしておけば「閉」ボタンはいらない。いやむしろその設定がなくても、他の階で誰かがエレベーターを呼ぶのを待っていれば、いつかは扉が勝手に閉まるのです。これは少し考えればわかります。が、実際「閉」ボタンはエレベーターについているし、なんなら私たちは「閉」ボタンのほうがよく押しているかもしれないのです。さらに言えば、「閉」ボタンはいざつけるとなったら本当の意味での自動化はできない。「開」ボタンは自動化できます。つまり人がエレベーターの前に立ったら「開」き、目的の階のボタンを押したら、後はそこについたら自動で「開」くようにプログラムを組めばよい。人の行動をカメラで監視していればいつ開くを押すかはある程度予測できる。だけれど「閉」ボタンは人間の行動を見ているだけでは判断できない。その人がいつエレベーターの扉を閉めたいかは、その人の行動からは予測できない。ずっとエレベーターの中で止まっている人が、突然手を伸ばして「閉」ボタンを押すのである。それはその人の自我、意識で決まるのです。そしてもっと言えば、これは長年議論されてきた「本はなぜ必要か電子書籍じゃダメなのか問題」に一つの回答を与えうると思うのです。本当に話が脱線して申し訳ないくらいですが、話そうと思います。まず本は、「閉」ボタンの集合ととらえることができます。見開きで一つの「閉」じるを実現し、(それは「折り目」という「境界」を「折る」ことで実現するわけですが(そしてさらに蛇足でいえばまさしく「哲」学は「折+口」の学なのだが))それがnページ合わさって全体としても閉じることができるようになっている。これが本である。では電子書籍やネットのブラウザのタブはどうか。そこには「開く・開き続ける」か「消去する」しかない。今もう一度この読むという行為を自動化することを考えてみてください。本を読んでいて、ふと、今日はここら辺にするかと、中途半端なページで閉じようとしたとき、それを自動化できるでしょうか。できるわけがない。どうしてその人がその中途半端なところでやめようと思ったのかを、その人の行動から読み取ることは難しい。そこにはその人と本から得られる情報をこえた外部の世界の情報(いまいい匂いがしておなかがすいたから本を閉じようとか、サイレンが聞こえて窓の外を見るために本を閉じようとか、あるいは急がなきゃいけない状況だから早くエレベーターの「閉」ボタンを押そうとか)が入ってきているし、なによりそれを自動化するにはその人の心の動き、自我に接続しなければならない。そうなると、本と電子書籍(あるいはネット)は全然違うものであることが分かってくる。本は「閉」ボタンの集合だが、電子書籍は一つの「開」ボタンとあとは「消去」ボタンだけなのだ。機能的に考えたら、たしかに「閉」ボタンなんて必要はない。けれど、この本当は意味のない「閉」ボタンを押すことができるということは、人間にとって多分必要不可欠なもので、それがないとうまく生きていけないんじゃないかと思うのです。ネットというものは、その「閉」性がないがゆえに、私の「皮膚」という境界を越えて、絶え間なく情報が侵入してくる。そこには「開」ボタンか、「消去」かしかないのです。いま、「閉」ボタンの必要性は高まる一方だと私は思うのです。そして付け足せば、そもそもエレベーターというものは一階と二階をつなぐ「間」の空間で、また境界でもあって、その「境界」の消失が最も根源的な問題ではないかと思うのです。
 脱線してしまいました。古事記の話に戻って、それをSNSの問題と接続しましょう。つまり「自覚なしに自己愛的なふるまい方をする存在」は少なからずこのスサノヲ性を持っていて、それに配慮するアマテラス成分を多く持っている人がどんどん追い詰められている。人の目を気にせずに批判する人というのはいて、それは何か変な人、おかしな人と思いたいですが、実はそんなことはないのです。このスサノヲとアマテラスを両極とするグラデーションの平面の上に私たちはそれぞれ乗っていて、その中でスサノヲ寄りの人が公然と批判している、と考えるべきなのです。このリポット・リンディ的に言えばe因子、木村敏的に言えばイントラフェストゥム的存在構造、安永浩的にいえば中心気質、河合逸雄的には森羅万象と融合するもの、であるスサノヲ性に、アマテラスよりの人たちは気づかなければならない。自分の中にも少ないながらそのスサノヲ成分が残っていて、そこを発掘しなければならない。(もちろん逆も然りです。スサノヲもアマテラスに気づかなければならない。)だけど、一つ現代のアマテラス成分を持つ人たちと本当のアマテラスが違うのは、アマテラスはそのスサノヲ性を発見するためにひきこもる天岩戸を持っていたけれど、現代のアマテラスはそれができない。さっきも言ったようにネットというのは本質的に「閉」が存在しない。それは接続され続けるか、そうでなければ消去(切断)するかしかない。実際、千葉雅也さんなんかはこの「切断」の重要性を語っているのだけれど、「切断」というのは強すぎるんじゃないか、もう遅すぎるのかもしれないけど、そっと「閉」ボタンを回復していくことはできないんだろうか。そっと「境界」を回復することはできないんだろうか。それは別にメキシコとの間に「壁」をたてて「切断」するというのではなく。ある意味で歌舞伎町の「門」のように。さらに、それを実現するには、歌舞伎町という「外」に門を建てるのではなく、まず自分という「存在」の成立にかかわる最も根源的な「内」の「門」を修復すべきではないかと思うのです。それが「存在の革命」ということだと私は思うのですが、それは今後の記事で書いていこうと思います。
 でもここでさらに述べないといけないことがあって、それは実はなんだかんだアマテラスは最終的に疎外から帰ってこれているということ、本当に最後に疎外されたのは、根の国へと追放されたスサノヲなのだということです。それはまるで寅さんのように、結局最後に疎外され続けるのは、スサノヲのほうだということも忘れてはならない。(そしてもっと日本に限って言えば、父なる神になる条件をそろえていながらも、日本的風土感から追放されなければならなかった「蛭子」こそ最初に疎外されたものなのではないか。)いずれにしてもそれを述べるにはレヴィ=ストロースの『神話論理』に立ち入らなければならない。そこでレヴィ=ストロースは、スサノヲを「バイトゴゴ」の系譜にみている。これも今回の記事では書ききれないので次回以降に回そうと思うが、この「バイトゴゴ」の語源は、まさしく「閉じこもるもの」なのです。でもここでさらに一つ言うなら、レヴィストロースはこの語のもう一つの意味に触れながらもスルーしていたと私は思う。その意味とは、「きれいな皮膚」なのです。(デディエ・アンジュ―『皮膚-自我』、ドゥルーズ『襞』を想起せよ)そして、その時に私は疎外者たちが紡いできた哲学に目を向ける必要があると思う。その疎外者は時に中心部に来て、歴史的に悲惨なことが起こったのだけれど、それでもその歴史に向き合って、今度は共同体としてではなく、個人の中で存在の革命を起こさなければならない。こんなことを私のような者が言うなと思われるでしょうか(これこそ正気の証明そのものな言い方だが)。それこそ革命という近代の夢を見ているのでしょうか。
 ずいぶん話を元に戻して、2つ目の「リモート化」が呼び起こす問題を話しましょう。これもまた複雑な話で、一つ目の問題は、まとめると、SNSやネットコミュニティである種「傍若無人」にふるまい、人の目を気にしない「スサノヲ性」を持つ人たちの公然とした批判と、それに配慮しすぎて逆に自傷的になり優生思想に染まり始めて過激になってきている人たちという二重の批判が渦巻くのがSNSの負の側面ということになるわけですが、二つ目の問題はこの構図の上にもう一層、「承認」の問題がのっかっているという問題なのです。つまり本来であればSNSでここまで批判・疎外されて、隣人愛がないと、いくら過去に親に承認されたからといって自然と自己愛も壊れていってしまうはずが、(実際にそうして自己愛を壊してしまった人もいると思います。ネットの誹謗中傷で自殺したひとの親がインタビューされるとき、基本的にその親はものすごく子供に愛情を持っているようにみえる、見えるだけかもしれないが...)それがSNSという非常に「承認」に対して労力がかからないシステムの上で、「なんだかんだもろくも承認されている」という感覚を得られるようになる。すると自己愛が壊れることなく保存され、疎外感が緩和されることになるのです。その承認は自傷性を克服するほどの承認ではなく、あくまでも「いいね」どまりなのですが、自己愛を保存するには十分な「承認」なのです。するとネットから抜け出せなくなる、抜け出した瞬間に自己愛が壊れてしまうから。生ぬるい承認の海で、ぷかぷか浮いているしかない。ずっとネットに接続され続けるしかない。じゃあネットを「切断」して、そこから抜け出せばいいじゃないか。いっかい自己愛を壊してでも抜け出す道はないのか、とおっしゃる方がいるかもしれません。しかし事態はそう単純でもないようなのです。(ちなみに私が宮台真司さんの意見に最後のところで共感できないのもこういう理由からで、彼の言うように日本は一回落ちるところまで落とさなければいけないというのは本当に難しいことで、つまり今はもう落ちるところまで落ちることができない構造ができてしまっているのが問題なのであって、それをあえて落とすことさえ難しいと思うのです。実際彼はそうした非常にもろい承認の上で自己愛を保存する人たちを「感情が劣化した者」といって目を覚まさせようとするのですが...)そこで出てくるのが、この後三つ目の問題で語る「模倣」と「依存」の問題につながる、「人生は演技」問題なのです。突然ですが哲学者のサルトルは、その著作「嘔吐(正確には原本では「吐き気」)」のエピグラフに、ルイ=フェルディナン・セリーヌの『教会』からこんな一節を引いています。「集団の中ではとるに足らない男だ。せいぜい一個人といったところだ」。何ということでしょう!これぞまさしく自傷的自己愛者の発言の典型ではないですか!「自分はとるに足らないことはわかっている。だがそのことを分かっている一点において人よりも優れている」という論理がそのまま表されています。なぜ突然サルトルを出したんだと思われたかもしれません。それは福田恆存を語るためです。福田さんはその著作『人間・この劇的なるもの』(もうタイトルからして人生は演技問題と関わりありそうですが)のなかでサルトルの嘔吐から一節を引いて、そのあとにこう語っています。「一口にいえば、現実はままならぬということだ。私たちは私たちの生活のあるじたりえない。現実の生活では主役を演じることができぬ。いや、誰もが主役を欲しているとはかぎらぬし、誰もがその能力に恵まれているとも限らぬ。生きる喜びとは主役を演じることを意味しはしない。端役でも、それが役であればいい、何かの役割を演じること、それが、この現実の人生では許されないのだ。」もし現代にも福田さんが生きていたらこう続けたかもしれない。「だが、ネットでは許される」と。そう、ネットでは役を演じることができる。私のすべてが現れないからこそ、役を維持し続けられる。「キャラ」を演じられるのです。キャラの誕生には2類型あります。1他人から批判されたとき、それに対しての防衛本能として、これは自分ではなく、ネットで私が巧みに演じている「キャラ」に対する批判なのだ、と自分を言い聞かせて自己愛を守る方向。(「根拠なき自信家」に否定され防衛本能として生まれる「キャラ性」「演技性」)2他人から承認されたとき、それにたいして、その他人が承認した「理想」の自分という「キャラ」が自分のなかにうまれ、それと実際の現実での自分の乖離から自傷的自己愛が始まる方向。です。今まで長々と述べてきた通り、この1も2もともに結局は自分の自己愛をはぐくむことにつながっているのです。そしてその「キャラ」とはまさにある「量産型」のテンプレートを「模倣」することなのです。
 日本のサブカルチャーは群の芸術です。「キャラ分け」し、「カラー付け」し、「階層化」し、「属性わけ」します。(詳しくは語れませんが、ポケモン、アイドルグループ、戦隊もの、仮面ライダーの敵側の階層性、仮面ライダーという社会に改造された存在対社会(会社組織)の構図、ナルト、ワンピース、エヴァンゲリオン、モンスターストライク、パズドラ、鬼滅の刃、呪術廻戦、チェーンソーマン、村上隆...を思い浮かべてください)秋葉原や中野に行けば、違うアニメの似た「キャラ」のグッズが「群」をなして売られています。それ自体は悪いことではないのですが、というかむしろその「群」性が共同体の維持ひいては自己の維持に欠かせないと私は思うので、それゆえ日本のサブカルチャーは海外でも一定程度うけているのでしょうが、あまりにも「キャラ」化が行き過ぎるとそれは自己の自由を狭めます。そしてキャラのたちが悪い部分は、それはネットを切断しても私たちに付きまとい続けるということなのです。「地雷系キャラ」は空想ではなく現実に、亡霊として立ち現れるのです。だから「感情の劣化した」「承認」をネットを「切断」してとめても、結局そこで形作られた「キャラ」の問題に苦しめられるということなのです。いやそもそも、この「キャラ」の問題、「模倣」の問題というのは、ネット誕生以前からずっと、いや下手をすると自我が誕生した瞬間からある問題なのですが、ネットがそれを加速させているのです。
 そしてやっと、最後の問題が語れるようになりました。暴力性についてです。じつは今までもジラールさんの概念を私なりに議論に取り込んでみてはいたのですが、ここで改めて彼の概念を振り返ってみましょう。ジラールさんは例えばベイトソンの「ダブルバインド理論」などから影響を受けて、「欲望の三角形」について語っています。私なりにかみ砕いているので原文に忠実ではないですが、少し見てみましょう。「他者に左右される欲望とは、他人による承認ではない。崇敬と怨恨が互いに強化しあっている。欲望は禁じられていなければならない。」「外的媒介から内的媒介への移行なのである、そして内的媒介において、差異は空想である。」難しいですね。私が思うに、つまり、完璧な模倣は両者を互いの分身にする。反復の欲望が、その対象を完全に模倣し、対等となったとき、泉にうつったとき、虚脱感だけ残る。ということなのでしょう。現代の起業家が成功して巨万の富を得てなお、「むなしさだけが残る」という感覚に近いいかもしれません。反復の対象としての他者の喪失感。結局欲望はその対象物ではなく反復そのものに対する欲望だったのだという感覚、といったところでしょうか。つまるところ、「模範」たる父が「障害物」になっているとオイディプスが気づくとき、そこに欲望が反復として発芽するのではないでしょうか。この憧憬の対象でありながら障害物であり禁止されたものであるという感覚が、一番私たちの反復欲を掻き立てるといったことでしょうか。「ポジティブな模倣のネガティブな諸結果。私を模倣せよ、私を模倣するな。」というジレンマです。そしてジラールさんはこういいます。「模倣された欲望が主たる規範、自発的欲望が例外。ロマン主義文学の主人公は、オリジナルでありたいが故に、自らの欲望を例外とし、他者たちの欲望を規範とする。」つまり何度も言うように、そうした「疎外」への渇き、「障害」への渇きが「模範」への反復する欲望の片棒を担いでいるのです。では「疎外」とは何でしょうか。「障害」とは何でしょうか。それは端的に言って、「暴力への気づき」です。しかもここでいう暴力というのは殴られたとかいじめられたとかそういう暴力ではない。いや正確にはそれも暴力なのですが、もっと根源的な暴力がある。それは、「他者に出会うこと」、もっと言えば「外部に出会うこと」の暴力性なのです。(実はジラールさんは少し違うことを言っています。差異の消失、(私なりの言葉では反復の不可能性)が暴力を生むといっているのです。なのでここからは私の意見の割合が大きくなります、ジラールさんの意見を知りたい方はぜひ彼の著作にあたってください。)つまり、神なき時代の現代においては、そうして「外部の何者か」を「神」に代入してそれに対して欲望していかなければならないのですが、(では欲望しないという選択はなかったのか、つまりそもそも「欲望の三角形」が生まれたのはなぜか、と思われた方、このの記事の最後でそれに応答するので少々お待ちください)そうなると基本的にその代入された側もまた、何かに神を見出さなければならなくなります。そして皆が皆、互いに互いを神として、それに向かって「模倣」したいという反復欲望を持つことで、共同体が生まれるのです。(それは父親みたいになりたいという反復欲望かもしれないですし、恋人に対する反復欲望かもしれないですし、特定の政治家や小説家みたいになりたいという反復欲望かもしれません)
 でも、今話したのは、代入したものが「人間」であった場合です。「物」であった場合、それは偶像崇拝になります。でも偶像崇拝が禁止されている宗教は多いですよね。それは、私が思うに、偶像崇拝を禁止することでこの代入されるものを「人間(例えばキリストやその他預言者)」に限定し、それによって共同体を維持存続させるという効果のためにあるのではないでしょうか。でも現代ははもう偶像崇拝を禁止する宗教の力が弱いですよね、そうなると先の理由から偶像崇拝(それはバーチャルアイドル崇拝かもしれないし、アニメのキャラクターに心酔することかもしれませんが)が頻繁に行われるようになり、先の理由の逆をいくことになるので共同体が解体していってしまうのです。そうなると現代において共同体が希薄になっているのもうなずけます。
 けれど、このようにいくら神に接近しようと、いくら自分でしたてた「模倣」の限りを尽くしても、それそのものにはなれません。また逆に、それは実際神ではなく「他者」や「他物」なのですから、むしろ自分の「理想」の「神」との差は開く一方でしょう。こうなってしまうとにっちもさっちもいかなくなります。自分は神になれないし、神だと思っていたものも神ではなかった。というわけです。ここで「犠牲(供儀)」が必要になるのではないでしょうか。(ここは結構ジラールさんの議論とは違います)つまり相手を殺し、殺せばもうそれ以上は相手が自分の「理想」から離れることもないし、そもそも「殺せた」ことで自分が相手の上に立てた証明になるので、もはや「模倣」は超越され、むしろ上に立っているわけです。(まさしく父殺しドストエフスキー、クロノスを殺したゼウス)(聖なるものを冒涜する感覚というのに欲望を感じるというのはこういうことです。冒涜することで上に立ち、模倣の必要性を超えるのです。自傷的自己愛ではこれが自分になります。まさしく自分殺し!自傷です。)まとめると、自分が他者に見ていた「理想の神」がついに他者を乗り越えて、その他者を殺して「理想の神」へとささげる(供儀する)わけです。この瞬間、まだ神である他者を殺して理想の神へと解き放つ瞬間こそまさしく神殺しのエクスタシー、神堕としのエクスタシーがあるわけで、その結果として死んだ他者の上に理想の神という聖性が現れるのです。
 で、蛇足ですが、そうした、「外部に出会うことの暴力性への気づき」が非常に敏感な人が「感覚過敏」としてあるいは「神」としてそれを見出してきた。という歴史的経緯があるように私は思います。その人は宗教者であり、シャーマンであったでしょう。でもそこまで極端でなくとも、私の中にそうした「感覚過敏性」は多かれ少なかれあるのです。そして今まで長々と述べてきたように、そうした自分の中の「感覚過敏」が刺激されやすいのが現代ネット社会なのです。いわば一億総宗教者社会です。そうなってしまうともはや、いたるところで神殺しの犠牲、供儀の儀式が必要になってきます。これが私が過去に言った(お前のことなんて知らねえよ、という方、すみません)「今や犠牲は一人では足りなくなっている、いたるところで決闘し、いたるところで犠牲者がでている」の意味です。ちなみにジラールさんは暴力の拡散を本質的暴力と呼んで、この際限のない復讐から回避する手段として3つ、1保護したいものから死んでも惜しくない対象に暴力の矛先を向けさせる、2補償や決闘による緩和、3法体系の確立、を人間は行ったといっています。現代では閉じない先ほど述べた閉じないネットのなかで、対面での決闘ではありえないレベルの長い時間の決闘が行われていて、「もはやジラールの言った2つ目は機能していないのではないか」という発言も私は授業中にしたと記憶しています。なお、日本の死刑制度も、言ってしまえば暴力の連鎖をたどっていってその最後の部分で一人犠牲に出す、ということです。でも、その殺人者個人の中に立ち現れた暴力性の起源は、結局のところ「私」と「外」の「間」にあるのではないか。私はそう思うのです。
 で、先ほど言った応答をしましょう。じゃあなぜ欲があるのか。欲ありきの大前提、「欲望の三角形」は原理だったわけですが、そこで満足してはいけないですよね、なんで欲望があるのか。ここを問わなければならない。でも私が読む限りジラールさんはこれにこたえてくれない。文学からその例を引用するばかりです。もっと言えば、そもそも暴力は他者と会うことにあるといったけれど、そうした暴力は何で生まれたのか、つまり他者と私の「間」に暴力はあるわけだけれど、なんでそもそも他者と私に分かれたのか、ここを問わなければならないと思うのです。外部に暴力を付与しても何も語ることにはならない。つまり今村仁司さんなどがいう、そして私が今まで延々と説明してきた「第三項排除」とその「聖化」いや、「障害」として追いやりながら「規範」として聖性を付与することは、何も語っていない。それは人間の体は免疫を持っていますと言っているに過ぎない。(バタイユを想起せよ、ガタリのエコゾフィーを想起せよ)でもそのどれもエコノミーかエコロジーかエコゾフィーかの違いでしかない。マクロコスモスとミクロコスモスの違いでしかない。私が知りたいのは、なぜ免疫を持っているのか、なのです。もっと端的に言ってしまえば、反復の欲望は「私」を維持するためにあると私は思っているのですが、つまり瞬きするたびにこの目に入ってくる光の反復、私の五感が感じる反復は、私が生まれたときに外部から要請され、そして自我が、まるで言語のようにだんだんと立ち上がったわけです。(私はそう考えています。機会があれば今度詳しく説明します)でもなんで自我があるのか。どうしてそれが必要になったのか。なんで存在があるのか。なんで外部があるのか。ここを問わなければならないと思うのです。そして私はそれがずっと気になってきたのです。私は無であり、外部にすべてがあるというという方へ流されることもありました。(現象学)外は空であり、私の中にすべてがあるという方に流されることもありました。(独我論)でも今は違うのです。その実在論と独我論の「境界」、即自と対自の境界を、その二項のすさまじい対立を自分の中で生み出すことで見つけなければならないのではないか。そしてその解答は、マクロコスモスとミクロコスモスの「境界」、カオスとコスモスの「境界」、その十字路の上、十字架の上に、内と外の異様なまでの拮抗の末に、そのはざまに「門(輪)」として立ち現れる。マルクスじゃなく、シュティルナーでもなく、その「間」、「鏡面そのもの」「水面そのもの」ウィトゲンシュタイン的に言えば「像の理論」と「現実」を結ぶ「糸」そのものを、それを「自分の中で」立ち上がらせることが、今回語られた問題の最終解決になるのではないか。いや、解決というより、永遠に遅延ができるということなのですが。それを今年中に書けるか、ちょっと時間的に厳しい気がしますが、今のところの私の思いのたけを書いてみよう、とこの記事を書いて思いました。

Il ne peut pas encore bouger.

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