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くるり日和

昨夜、くるりの25周年ライブを見に行った。今朝もWORLD'S END SUPERNOVA最高だったな、とその余韻に浸っている。

そんな時に記憶トリップした。
こんな感覚真面目ばかり言う人をなんだか薄っぺらいと思ってしまう感覚。それって遊びがないからかな、とただただ解像度低く捉えていた学生時代の延長を生きていた時があった。
僕自身が真面目に、真っ当に生きていなかった対岸から眺めていたからそんなふうにみていたのだろう。役に立つビジネス書ばかりを読むよりも、小説を読んだりして感覚遊びを繰り返す。大音量でロックを聴いて没入して、陶芸でもしながらお酒を飲んで、これが自分の住む川の岸でポカポカ陽気に呑気に暮らすことが永遠に続けばいい。対岸を卑下していた訳ではなく、こっちでしか生きていけないんじゃないかと思っているだけで。

そんな自分自身が社会人になって真面目なことばかりを言う時間が人生の多くを占めてしまう時間にシフトしていった。簡単にスイッチを切り替えるようにスイッチしたわけではない。それは半ば矯正されたようなもので、冬の雪のチラつく川を渡ることを強要されているような苦痛に近い時期があり、次第に足指先の感覚がなくなっていく。そのうちにこう言うものだと自分に言い聞かせているうちに対岸の到着する。そして真っ当な岸の人間の仲間入りをした。大人の仲間入りを果たしたのだ。

って物語にしてしまえば自分を律することができるので便利なのだが、そうも簡単に行かない。


僕はここ数週間noteを書くことができなかった。
ちょうど今年から転職したことでこの1ヶ月ちょっとしがみ付いている期間。流れてくる情報の取捨選択するためのモノサシも持っておらず。ひとしきり飲み込もうと思っても、モノサシで測ることもできてないためそもそも口に入るサイズでもなく、刻んで噛み砕く顎の力もなく。前職で生やして磨いていたはずの前歯が役に立たないことを突きつけられ、無力感を感じ続ける日々。消耗し続けるわけだが補充できるものがなく、エンプティーランプがチッカチカし出している。

休日も仕事に役に立つビジネス書を手に取ろうと思っている僕をふと立ち止まってみることができた。立ち止まらせてくれたのは昨夜のくるりの25周年ライブだった。朝からワクワクするこの感じ。って客観的な感じに自分を点検してみた。夜までの間ビジネス書ではなく村上春樹だけをカバンに詰めて家を出た。それだけで何かが満たされていく。
ライブが始まる。目の前で人間がギターを弾き乱れ、腹の底から声を出して歌っている人、重低音が全身を震わせる。くるりありがとう。

僕のエンプティーランプは気づいたら消えていて、むしろ心は満タンに満たされている。雪予報だった東京の夜の道を歩いていても寒くない。僕は役に立つ側からポカポカ陽気の岸に戻ってこれていた。

大人になると言うことは役に立つの世界の対岸に渡れるかどうかではなく、隔てる川に流されることなく、岸と岸を行ったり来たりできるような人間なのかも知れない。知らんけど。

そんな堅苦しく考えんでええよ、気楽に行ったらええ、とくるりの岸田繁さんならそう言ってくれるだろうか。ただただ今日はずっとくるりを聴きながら散歩するだけで十分なんだ。

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