【第6回読書会】『サイスの弟子たち』ノヴァーリス著
今回は「読んだのに理解しにくかった所&疑問点」より
「ヒヤシンスと花薔薇の挿話について」
こちらの考察です。
一冊をじっくりと深堀していくスタイル。
コメント欄に感想や質問など書き込んで頂けば、
次回本文に取り上げさせて頂くことも。
どなたでも奮ってコメント欄にてご参加下さい !
また、初めてこの記事を読まれる方や
この本の内容については私の読書感想文をどうぞ!!
ノヴァーリスの「サイスの弟子たち」哲学的なあまりに哲学的なー小説|MAGUDARA|note
それではメンバーの御紹介を🎵
🍋リモーネさん、🌸sakuragaさん、私✞MAGUDARA(vingt-sann)の3人それに有志代表の🐥shionさんです。(今後のやり取りは絵文字を使わせていただきます)
それでは開催します。
✞「ヒヤシンスと花薔薇のメルヒェン」については、メンバーのリモーネさんとsakuragaさんのお二人からはこんな疑問やご意見を頂きました。まずはsakuragaさんからどうぞ。
🌸疑問というか理解しにくい点は、ヒヤシンスがイシスのヴェールをかかげた際に見たのは「花薔薇」とあるのに、最後の補遺では「自己自身」となっている点です。ということは「花薔薇」=「自分」?これは?
(この後にsakuragaさんはご自身で答えと思われるものを用意されているのですが、一先ず次のリモーネさんの気付きと併せて考察していきたいと思います)
✞ええと、sakuragaさんが言われる補遺の部分とはP108のこちらの部分ですね。
「ある男がなしとげた――かれはサイスの女神のヴェールをかかげた――だが、かれはなにを見たか。かれは見たのだ――奇跡の奇跡――自己自身を」では少し具体的に見ていきましょう。
ここで他の方々にもわかりやすいように『ヒヤシンス~』の挿話の内容を簡単に紹介しておきます。
この太字にさせて頂いた部分ですね。(注27)によると、愛する乙女との再会という結末は、なるほど補遺では「自己自身の発見」であると示されています。
✞今度はリモーネさんのほうの気付きについて聞かせて頂けますか。
🍋このメルヒェンを読んだとき、外典「使徒トマスの公伝」の中にある『真珠の歌』と同じものを感じました。その内容は一人称ではじまり、こんな内容です。
※『ユングとオカルト』秋山さと子著/講談社現代新書より簡略)
✞二つの挿話をこうして比べてみると、なるほど『ヒヤシンスと花薔薇のメルヒェン』と『真珠の歌』の共通点を感じないわけにはいきませんね。両者の共通点として挙げられるのは、両親から何らかの祝福を得るために困難な旅に出る状況に立たされることと、最後の目的に辿り着いた先に見つけたものが自己自身の姿であったということになります。
🌸はい、それはわかってるんですが、「愛する乙女である花薔薇が自己自身である」という意味がわかるような?わからないような……ああ、なんだか今一つスッキリしなくて。一応答えらしきものは用意してるんですけどね。
🍋私も先ほどお話した通り、とにかく『真珠の歌』を見つけたときは興奮♡しました!!それでもちろん自分なりの答えも用意してあります。
🐥前回のコメントにも書かせて頂いたように、聖書とか他の関連作品やエピソードなど、今回もただ驚いてばかり(@_@)のShionです(笑)
✞ここで先程のリモーネさんの『真珠の歌』の出所である『ユングとオカルト』についての裏話を。
最初にリモーネさんからこの本の話を聞いたとき、内心👏👏したい思いでした。この本は未読でしたが秋山さと子氏のユング関連本数冊とユングに関する本も少しだけ読んでいて、さっそく手に取れば、錬金術、薔薇十字、賢者の石そしてグノーシス派など中世好きな私の大好物のワードがずらり並んで。そうそう、わりと最近ユングの『心理学と錬金術』なる上下のハードカバーも手に入れて。まだ完読はしていませんが。
🍋まさかマグダラさんがユングや秋山さんの本にそんなに関心を持たれていると知って驚きました( *´艸`)
それともう一つ驚いたことは、なんとこの本にはノヴァーリスの『青い花』のワードも出てきて……。
🌸やはりここから先は『青い花』その他を読んだほうがいい気がしてきます。なんでも『青い花』の中でもクリングゾールのメルヒェンというのも出てくるようですし……。ここで一つ言わせて頂くなら、ノヴァーリスのこの神秘的なメルヒェンは、恋人ゾフィーとの不思議な幻想的体験抜きには描けなかったと思いますね。
✞そうですね~。sakuragaさんが言われるのは、いわゆる<ゾフィー体験>と言われるものですね。それに関してはまた後ほどー。それでリモーネさん、ユングはこの本の中で中国の錬金術書に出てくる「黄金の華」と『青い花』とは同じだとも言っていますよね。先ほど挙げた私好みのワード達はみんな底で繋がっているようにも思えますし、ノヴァーリスのメルヒェンとも関わりがありそうです。
🍋最初、『ユングとオカルト』の表紙のこの図版を見て……あれどこかで見たことがある。そうだ、以前マグダラさんに御紹介頂いた『立昇る曙』という錬金術の本の表紙だ!って気が付いて。でも『ユングとオカルト』のほうは人物の顔を入れ替えてますね(笑)ユング自身と母親の顔とに。これはもしかして?
✞もしかするかもしれませんよー。リモーネさんが今言われたこと、これは良いヒントになるんじゃないかな(*^^*)
私はこの絵、いや図版のそこに注目すべき重要な答えが隠されているとみてるんです。一組の男女、またユングと母親という組み合わせにも。よく見ると二人は腰の辺りで繋がっているように見えますが、これは一心同体の両性具有者(男女両性を備えた存在)であることを示すもの。ユングの母親は普通の優しい面とミステリアスな霊的な力の二面を持つ女性だったようで、彼はその影響を強く受けて育った、はっきり言えば支配され続けた――それがユング心理学の元型の一つである<グレート・マザー>というものを生み出したとも言えるでしょう。ここではそのイメージだけ提示しておきます。
🌸出ましたね。エジプト!そしてイシスも
✞このグレートマザーなるものも深いところで関わっていると考えますが、ここではもう一つの元型<アニムスとアニマ>という概念に注目してみたいと思います。ここからはあくまでも私の個人的見解と言えるものなので、そのつもりで聞いて下さい。
🍋🌸🐥了解しました。どうぞ続けて下さい!!
✞ユングによれば、すべての男性の心の奥に無意識に形成される一つの人格は一人の女性像として存在すると。この元型をアニマと呼ぶのに対し男性の方はアニムスと呼びます。例えばそれぞれの本性を男性=理性と客観性、女性=想像力と感性とするなら、人は自分の中にある足りない部分を補うためにもう一方を求める、その両方が一つになることで完全性というものを手に入れることができると思っている。
『ヒヤシンスと花薔薇のメルヒェン』にこれを当て嵌めてみますと、こうなるでしょうか。夢見がちな少年ヒヤシンスは、自我に目覚め自分の心の奥を深く掘っていくうちに、自身の中に眠るもう一方の女性性なるものに気が付き、それを手に入れることなしにはもう一歩も前へ進めないような思いでいっぱになる。要するに一刻も早くもう一つの<性>と一体化することで成長したいと彼の無意識が叫んでいるわけですね。(ここには詩人ノヴァーリスの自己が投影されているのでしょう)
先ほどsakuragaさんが<ゾフィー体験>のことを言われましたが、ノヴァーリスにとって幼くして死んだ婚約者の恋人ゾフィーとの出会いこそ、(もう片方を)見つけた!という一瞬の閃きだったに違いないと。彼女を守護霊と崇め、ゾフィーは彼にとっての<アニマ>的存在だったのだと思います。深い喪失感を覚えながらも、その後ゾフィーの墓場での幻視体験を日記に記し作品にもしている。結果としてそれを機に彼は詩人としても作家としても大きな成長を遂げたということになるのでしょうから。
🌸ゾフィー体験についての考察ありがとうございます。
✞さて、ユング自身との直接の関連はこのくらいにしまして――『真珠の歌』についてです。
実はこのように危険を犯し水中に蛇の守る宝を取りに行くのと似たような話は世界中にあるようで、やはり問題はこの「真珠」とは何かということになるかと思いますが。その答えはsakuragaさんの疑問の「ヒヤシンスがベールをかかげた先に見たもの(花薔薇=自己自身)」ということに繋がるのでしょうか。
リモーネさんの『真珠の歌』についての考察をお聞きしたいと思います。
🍋まずはこの物語ですが、イラン型グノーシス主義の流れを汲んでいます。あっ、グノーシス主義は何かというと、簡単に言ってキリスト教の異端なのですが、いろいろ諸派により違いがあり一言で言い表すのは難しいです。でもそこを何とか言うとすればこういうことじゃないかと思います。
「この宇宙の秩序とはかけ離れた超越的な神の存在を信じる」と言うことです。特徴的には神話のような形で展開し体系化するといったような。
『真珠の歌』の中では、両親の家は<天国界>。それに対しエジプトと物質世界の象徴として下界に眠り苦しみ悩む自己の分身と光輝く本来の自己の統合というもの、これは分裂した自我の統合つまり<光と闇との統合>ということになります。これらが物語を変え、登場人物を変え、さらには時代を超えて、下界の苦しみで眠り続けている私たち人類に向かって、常に語りかけ目覚めさせようとしているように思いました。
つまりそれが……。
✞リモーネさん、その先の答えはstop!
お待ちください。次回最後の問いになる「イシス神のヴェールをかかげる意味、ヴェールの中にあるものとは」で語って頂くつもりですので(^^;)
sakuragaさんも答えは次回にということでよろしくお願いします(>_<)
Shionさんも今回は出番が少なくてごめんなさい🙇引き続きよろしくお願いします。
🌹 🌹 🌹
(その他のリモーネさんの疑問点への答えとして)
🍋●P106―後ろから1行目 『自然の師』という言葉だが、自然より上の存在として、特定であっても人を置く点。
✞これは文章の前後からみれば、自然との付き合い方を知っている、自然の使い手という意味であり、同2行目の「真の自然理解があれば」につながるものではないかと思います。ただ自然より上の存在として人間(=師)を置くのはどうか?ということですよね。時代背景的にもし初期ギリシャ哲学(ソクラテス以前)の時代なら、神が世界を創るという発想はなく、万物=自然は永遠の運動により自ら立ち上がると考えられていた。つまり自然は神ではなく人間もその自然の一部に過ぎないものであったわけです。
🍋●P110—4「人間は自然の救世主である」→ここがよくわかりません。
✞わかりやすいように、前の文章を追加します。
「人間は、自己自身と自然の福音とを告知する。人間は自然の救世主である」
これも前の『自然の師』につながるものではないかと思うのですが。つまり、自己の自然器官を目覚めさせ自然の心を生かせることのできるのが人間(感受性に富む観察者或いは詩人)というものではないかという意味だと私は受け取りました。
リモーネさん(他の皆さまも)、どうでしょうか?
(最後に前回のShionさんのコメントから)
そこでこの【小さな読書会】を今まで読んで頂いた方に
一つ質問をしたいと思います。
「あなたにとって「師」と呼べる人はいますか?
よければ具体的にその人物を教えて下さい」
また出来ましたら何故そうなのか一言も……
皆様のコメントで読書会を盛り上げて頂ければ幸いです!!