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およそ惨めなものは、将来のことを不安に思って、不幸にならない前に不幸になっている心です。

おはようございます。

今日の言葉はローマ帝国の政治家、哲学者、詩人のセネカです。

私たちの思考は基本的に「悪いこと」を考えるパターンができています。
今までの人生で経験した失敗をベースに
「賢く」なったのかも知れません。
「恐れ」が増えたとも言えます。

リスクマネージメント。

もし、地震ためにロウソクを用意したり
テストのために、勉強したりというようなものであれば
実質的なリスクマネージメントなので
不安が増えるどころか、不安が減るはずです。

私たちのパターンは、
存在もしない不安で妄想を作り、
自分で不安を煽っている
全く現実的でない「不幸遊び」なのです。

本当に不幸で、
本当に危機的状況であれば
こんな遊んでる暇があるはずもなく、
必死に問題解決のために「動いて」いるでしょう。

このパターン、いつからできたのか考えて見ました。

「失敗したら、どうしよう。」

私は息子がすでにこのパターンを持っていることに気がつきました。
彼が経験から作り上げた不安です。

失敗したら、怒られる。

子供が怒られて怖いと感じるのは、
大きな声や音、もしくは実際に体罰の形で痛みを感じること。
悲しいと感じるのは、大好きな人が幸せでないこと。
不安に感じるのは、自分の生命ライン(食べ物)である存在を失うかも知れないこと。

そんな風に思います。

赤ちゃんの頃は、
「コップを倒して水が溢れる」ことを失敗と思うでしょうか?

大人が倒れたコップを笑顔で見続けていれば、
それが悪いことだとは思わないでしょう。
大人がビックリした顔で困った顔をすれば、
それがお母さんを悲しくさせていると感じるでしょう。

不安のパターンを作ったのは、
親なんだな・・・。
申し訳ない。

いや、親が作らなかったとしても
きっといつか、社会に出たら経験すること。

それなら、
不幸の妄想にハマった時に、
気がついて、抜け出す方法
を教えてあげればいいんだ!
と、不幸の妄想から脱出。

息子が不幸のドラマの主人公になっている時、
「それ、本当なのかな?」
と、声かけ。

「えッ、何言ってるの?」
と、おどろく息子に
「それ、自分でお話作ってない?」

どの部分が事実で、どの部分が妄想か
二人で分析する。

分析している時、
息子は不幸のドラマの中にはいない。
ドラマを外から見ている、
観客か監督になっている。

どうせ妄想するなら、
呑気で楽しいことにすればいいのに。
と、思う。

なぜ、そうできないのか?

楽しいことを考えていると、
ばちが当たるとか、あとで後悔するとか、
自分を戒めてしまう。

楽しいこと、は
怠けようとは全然違う。

そういう、微妙な言葉のニュアンスの違いが
何処かでごちゃごちゃに絡まって、一色たんになって
物事を見てしまっているんだろうな、

将来のことを楽しみに思って、
幸せになる前から、幸福に過ごせる

そんな大人になれますように。

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