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人生という川、病気という壁 マヌエル・バンデイラの三番目の詩集について

以下の文章は僕がこの前インスタグラムに投稿したものなのですが、せっかく書いたから久しぶりにノートにログインしてここにも再投稿しようと考えていた。最近読んだ、ブラジル詩人のマヌエル・バンデイラの本について紹介しようとして書いてみた文章です。


一昨年から僕はインスタグラムで自分が日本語で読んだ本をポルトガル語で紹介しようとしてきた。そうしてみたいと決めたことにはいくつかの理由があり、大学院などに対してのフラストレーションとしか言えない気持ちもその理由の一つだろうと思うが、そうしているうちに、いつかは逆の方向のこともしてみたいと思うようになった。つまり、ポル語で読んでいる本(特にブラジル人に書かれた本)を日本語で紹介(?)してみたい、という気持ちも湧いてきたことに気づいた。今までそれを実現しようとしなかったのは、僕が最近あまりポル語の本を読んでいないということもあるけれども、それよりもやはり自分の日本語力への不満、自分の書く日本語に対しての自信のなさのためだろうね。ラインなどでの短いメッセージはまだいいけれど、好きな本についての感想のような文章となると、ポル語で書いていると同じレベルのものは書けないなと思い、まだ無理だと諦めてしまう。外国語でうまく書けるようになりたいと思うなら、とりあえず書いてみないと、練習しないと上達できないことは理性的には知っているけど、それは本当に理解するにはやるしかないことだろう。やりはじめて進んでいくという意志の問題だけど、自信がないときはそれは非常に難しい。では、なぜ今度は日本語で書く衝動?が湧いてきたかというと、それは僕にもよくわからない。新年の雰囲気みたいなもので新しいことやってみたいということだけなのかもしれない。とりあえず一回だけでもやってみようか、と。自分の今までの経験から考えたら、問題は始めることではなくて、し続けること、それを習慣にすることだから、それはこの投稿で終わってしまう可能性が少なくない。
上の序文が長くなってしまったのでどれくらいのスペースが残るかわからないが、今日読み終わったこの本について少しだけ書いてみたいと思う。ブラジル詩人のマヌエル・バンデイラの第三詩集『O ritmo dissoluto』(ほどけたリズム、と翻訳していいのかな?)。この詩集がはじめて出版されたのは、第一詩集と第二詩集をも集めた1924年の『Poesias』(詩集)という本の中だが、僕が読んだのは2014年のGlobal社に出版されたものだ。作者バンデイラは1886年にブラジルの北東部にあるレシフェ市に生まれたが、1968に亡くなるまでの生涯の大半部はリオで住んでいた。その処女作A cinza das horasは1917年に出版された。つまり、バンデイラは萩原朔太郎と同じ年に生まれ、その処女作も朔太郎の処女作『月に吠える』と同じ年に出版された。そして彼らの初めての作品集は共通して悲観的で鬱々とした雰囲気があると言えるだろう。この『O ritmo dissoluto』は、アルシデス・ヴィラ―サ教授による解説にあるように、バンデイラの最初の重大な詩集といえるだろう。この作品集においてバンデイラはもっと明らかに自分の個性的、個人的な声または文体に至ったことは解説に指摘されている通りだが、もっともバンデイラ風といえるユーモアに満ちた、口語体を自由自在に利用する自由詩を完全に達成するには1930年の第四詩集『Libertinagem』(放蕩?)を待たなければならなかったと思われる。 バンデイラは10代の後半に結核をかかっていることを知って、つねに死んでしまうことがただの時間の問題だと思いながら、結局82歳まで生きたが、彼の死や病気に対しての思いは最初の作品から現れ、1930年の『Libertinagem』ではそれがユーモアを通して表現されていることがよく知られている。(偶然なことで、僕がちょうどこの本と同時に正岡子規についての大江健三郎の文章を読んでいた。そこで時代が重なる朔太郎よりも、バンデイラと子規との比較研究があれば面白そうだなと思ってきた。彼らの人生、病気、詩と死などに対しての態度と仕事をめぐってのような研究)
さて、残念ながらここでは『O ritmo dissoluto』に集まれた詩を一つず分析するスペースもなければ、今の僕にはそれを日本語でする力も絶対にないのだけれど、ただそれらの多くには水に関連する言葉が人生と時間の流れの象徴としてよく使われることに気づいて、それが作品全体のテーマの一つと言えるだろうと述べるけにしておこう。最後に、自分の特に気に入った詩のタイトルと僕の翻訳で終わらせておく。
「O silêncio」(沈黙)、「O espelho」(鏡)、「Na solidão das noites úmidas」(しめじめした夜の孤独)、「Os sinos」(鐘)、「A estrada」(道路)、「Sob o céu todo estrelado」(満天の星空のしたで)、「Noturno da Mosela」(モーゼルのノクターン)、「Gesso」(石膏像)、「Noite morta」(夜の静寂)、「Na Rua do Sabão」(シャボン通りに)、「Balõezinhos」(小さな風船)。

以上はインスタの投稿の文章です。ここに再投稿するにあたって、このブログのタイトルの「壁」にどんなふうにつなげればいいかということを考えてしまう。やはりバンデイラの場合は、それは死や病気を一つの壁として考えるということになるでしょうかね。自分が病気だとわかって、自分の前に病気という壁(あるいは川のイメージにならって堤防とも言っていいのかな)があるのだが、それをただ見つめたり、あきらめてそのまま動かなくなったりすることにするのか、それともその壁の存在を認めながら、別の方向に歩きだしてみることにするのか。バンデイラは明らかに後者のほうを選んだでしょう。そして、正岡子規も同じ選択をしたことは、文章中に触れた大江健三郎の講演記録 (岩波書店の『核の大火と「人間」の声』に入っている、「子規・文学と生涯を読む」という文章)からもわかると思います。
僕は去年日本に来たとき、数冊の本を持ってきましたが、そのほとんどは文学作品ではなくて、むしろ文学や社会についての本です。一つだけ、別のマヌエル・バンデイラの本がその中にある。それは、バンデイラが編集したブラジルの詩歌のアンソロジーそしてそれを紹介する『Apresentação da poesia brasileira』(ブラジル詩歌序説)という本です。いつかまたそれについて書きたいと思っていますが、ブラジルの詩という世界に入るための素晴らしい入門書だと思います。

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