歴史とは
サンフランシスコ州立大学の先住民学科で教鞭を執る、ロバート・コリンスさん(三八歳)は、わたしが南三陸町で撮影した津波被害の写真をくいいるように見つめながら、「その土地に根づいた家族の歴史がすべて洗い流されて」と息をのんだ。大災害という言葉ではひとくくりにできない。それぞれの家族がもつ大地とのつながりが気になるようだ。先住民は部族単位で見られがちだが、その基本単位は「家族」だ、とコリンスさんはいう。
鎌田遵 著「辺境」の誇り ーアメリカ先住民と日本人 から
この一文に出会って、改めて僕らは歴史の語り方を間違えていると思った。織田信長など英雄中心の政治史より、歴史は、当時を懸命に生きていた市井の人々にこそ語られている。
その物語こそが歴史というものだ。
だって時代を形づくっているのは市井を生きるたくさんの人々、その人たちが泣いたり笑ったり、フツウにしてたりして時代を形づくっている。
深夜に筆を進めていると新聞屋さんのカブの音が近づいてくる。朝になれば会社へ急ぐ人たちの靴音が響いてくること。そうしたことが時代をつくり、その時代が重層になって歴史が形成されていく…
知らなきゃいけないのは市井の人々のオーラル・ヒストリー。庶民の暮らしこそが、歴史の主成分であるはずだ。
ヨコハマの歴史だって、為政者たちがつくった近代建築で語ってはならないのだろう。本来は「三塔(神奈川県庁/横浜税関/横浜市開港記念館)」ではなく、その周辺に広がっていた、今は、関東大震災や大空襲で跡形も無くなってしまった市井の下田屋にこそ、このまちの歴史が息づいていたのだろう。
今の今だって、そうやって歴史は流れている。
その歴史を、僕らが注視するか、見過ごすかだ。
この視点を忘れれば復興も空虚なものになるだろし、それより何より、ただただ偉人、権力者で語る歴史って不自然なんだと思う。
鎌田遵 著 「辺境」の誇り ーアメリカ先住民と日本人
集英社新書(2015年)