知らない人を信用しない
写真はクリームシチューお肉は鶏のささみです。
現代社会は知らない人を信用する事が求められています。
例えば、家を建てる時に知らない人から土地や家を買うのです。自分の土地に家を建てたくても建築基準が変わって建て替える事ができない場合もあります。知り合いに建築屋さんがいれば安心ですが、何も知らずにいきなり家を建てることはできません。
さりとて何もかも知ることは不可能です。家を建てる関係のお仕事をしている人でさえ他人を信用して自分の家を建てるのです。DIYで家を建てる人は凄いですね。
どこまで信用するのかを明確にするそしてそれが維持できているか常に確認することです。たとえ書類で残っていても反故にされることもあるのです。
信用するとは疑問が湧いてその疑問が解消できることです。疑問が湧いてその答えが得られなければ信用できないのです。疑問が湧かないから信用するのは間違いです。
問うのです。自分を信用できないのは疑問を感じさせなくする環境です。
大丈夫だとか、安心安全だから何も考えずに言われた通りにすれば良いと思わせることです。宗教の教祖を信じましょう。神や仏を理屈ではなく信じましょうと言われても神や仏の意味を知らずに信じることはできないのです。私が理解している神は自然の摂理です。重力が合って、地球が丸くて人は地面に立っていて地球は自転していて太陽の周りを公転していて月が地球に見せる面が常に同じなのは、月が回転する自転の周期と、地球の周りを回る公転の周期がまったく同じ(27.32日)だからです。
潮の満ち引きがあるのは海が月の引力に引っ張られるからです。
波があるのは水面が風に吹かれるためです。大きな池や湖にも波はあります。学問は自然の摂理を知ることです。
学ぶことを阻止する思想や宗教、考えは信用できません。
学ぶのは学校だけではありません。学問は人の疑問に答えるためにあるのです。すでに答えが出ているのにそれを知ることなく自分で答えを求めると違った答えが出ることもあります。それは問いが違っているからです。
例えば、「空」とは無いも無い、有るのは「空」という「空」だけ。
仏教辞典では「固定的実体の無いこと。実体性を欠いていること。うつろ」
空は認識したものになることです。認識した人が多ければ空もたくさんあるのです。
信用することは良いことだと洗脳されているのです。信用できない人を信用することは無いとも洗脳されているのです。学ぶとは疑問を持つことです。疑問に答えるために学ぶのです。
疑問がなくて一方的に教えられても学ぶことにはならないのです。なぜ生きるのでしょうか?答えはたくさんあります。生きるために何をしても許されるのでしょうか?疑問に思わなければ欲望のままに行動してしまいます。
タダでサービスを受けたらタダで提供した業者はどうして食べていくのでしょうか?それは既存のユーザーから賄うのです。未来のユーザーから賄うのです。賄えなければ借金をして賄うのです。その借金が返せなければ倒産です。そのような業者を信用しているのが私たちです。
個人資産があって会社が借金だらけの会社はいくらでもあります。
株式会社であれば個人の資産は別扱いですから私腹を肥やすことは簡単です。中小零細企業や個人事業主の会社では、税金対策のためにお互いに伝票操作すれば実態のない売買もできて税金対策ができるのです。
だから、社員を増やすより外注を増やして個人事業主を使うのです。この仕組みはうまくいっている間は大儲けできますがどこかでつまずくと倒産の連鎖が始まるのです。どうするのが良いのでしょうか?備えることです。あらゆるパターンを考えて準備することです。
希望的観測で準備をしてはいけません。厳しい予想を心がけましょう。
知っているつもりでも知らない事があるのです。あえて伝えていない事があったりするので信用してはいけないのです。信用するから裏切られたと思うのです。信用する、しないにこだわらずに自問自答を続けるのです。
自然の摂理に従うしかないのです。自然の摂理はなるべくしてなる運命のようなものです。逆らうことも無視することもできない「なるようにしてなる」のです。
努力して報われる場合も報われない場合もあります。努力するも努力しないもあなたの気持ち次第ですが努力した分だけしないよりは報わられるのです。それが自然の摂理です。
自然の摂理を理解しましょう。信じられるものがある方が信じられるものが無いよりは安心できるのです。でも安心をしたいから信じるのではないのです。信じて疑う必要が無いから安心なのです。
仏はそのように自然の摂理に気づいて学ぶことを薦めてくれる自分の心です。宗教で神や仏の存在に気づいて疑問に思って学んでいける日本の文化は素晴らしいと思います。