てざわりがない。想像もない。
自分の中では答えが出ていないが、
どうしても書きながら言語化したいことができた。
きっかけはランニングだ。
最近こんな話ばかりだが許してほしい。
いつものように朝起きて、
ほどほどにストレッチをしてから外に出た。
走るのが絶対に嫌な日もあるが、
この日はなぜかノリノリだった。
気づいたら靴を履いていたくらいの感覚だ。
走り始めてからも調子が良かった。
いつもは3kmあたりでバテ始めるのだが、
この日は特にしんどくもなく、
一定のペースで走り終えることができた。
その時、ふとこう思うのだ。
走っていなかったら、
今日が "走れる日" なのか
それとも "すぐバテる日" なのか
僕はわからなかったんだろうなと。
要するに今回のテーマは
日々の生活の中で、
身体感覚が薄れているということだ。
そう話すとこんな反論があるかもしれない。
自分だって、わざわざ走らずとも
自分の体のことくらいわかると。
なんとなくしんどいとか、
首が痛いとか、当然感じるじゃないかと。
しかし、議題はそんなことではない。
もっと純粋で物理的なことなのだ。
例えば体の各パーツの可動域が
どこまであるのかとか、
目を閉じて肩の高さまで
ちょうど水平に腕を上げられるかとか、
自分の体に関するもっと初歩的なことなのだ。
わかりやすい例を挙げると、
越えられると思ったガードレールで
つまづいてこけそうになるとか、
走ろうと思ったら足がついてこなかったとか。
その程度か、と思うようなことだ。
世界はますます便利になるだろうし、
多様な人々を包摂できるように
これからも優しくなるのだろう。
それ自体は否定すべきことではないが
裏腹に失うこともあるのではないか。
ここを再考し、
どう生きるべきかを考えたいのだ。
思考と身体活動の二面で
シンプルに世界を捉え直そう。
最近ブームになっているAI然り、
投資が進んでいる量子コンピュータ然り、
今までもこれからもコンピュータを用いて
人間は思考の面を強化していくのだろう。
これ自体は素晴らしいことだし、
僕自身も一消費者として
恩恵を受けることは多分にあるだろう。
僕自身、研究をする中で
chatGPTを利用することもある。
それでも毎週のゼミでは、
教授から想像を超える
核心をついた指摘をくらい、
次の週までに文献を読み込んで解釈し、
回答を用意するというループからは抜け出せていない。
でもまあ、これで良いんだろうと思っている。
ある程度の作業を移管できる分、
空いた時間で積み上げられることが増えるからだ。
一つ忘れてはいけないと思うのは、
"人間それ自体" の思考力が強化されているわけでは
ないかもしれないということだ。
あくまで思考をファスト&スロー的に捉えた時の、
スローな思考の一部を高次元なテクノロジーに
外注できるようになったというだけである。
空いたスローな思考のキャパシティで
他のことを考えるということが
テクノロジーだけでなく、
ひいては誰かに何かを移管するときの
大前提となる考え方ではないかと思うのだ。
ただ、物事はそう単純ではなく、
ファストな思考さえあれば、
スローな思考をやってくれる
という解釈も可能であり、
実際のユースケースとしては、
その側面が大きいのではないかと感じる。
情報通信技術が発達すると
遠くの世界の情報が手に入る。
しかもリアルタイムでだ。
しかし、多くの情報に触れるにつれて
情報に割く時間は減少する。
表示される文章を数字やテキストのまま受信し、
身体感覚を伴わずに丸呑みする。
そんな感覚を、
第一に自分自身を例として感じている。
身体感覚の喪失には、
ワイヤレスイヤホンも一役買っていると思う。
当然脳に入る情報量が増えるし、
聞き流してはいるのものの、
車や風の音とは異なり音楽はノイズではない。
意識が向く割合も大きい。
その結果、スマホで得る情報には
身体感覚が宿りにくくなる。
情報を消化し、場面を想像し、
自身の身体感覚に落とし込む。
そんな文字通り「腑に落ちる」経験を
僕は最近いつしただろうか。
いつしか僕の日々からは
身体感覚が削ぎ落とされていた。
さらに怖いのは、
自分の身体についての初歩的な感覚さえも
失ってしまっている可能性さえあるのだ。
こうなると、悲惨なケースが訪れる。
自分の身体感覚が麻痺すると
他者の身体感覚に無頓着になる。
ますます情報に割く脳のリソースは減り
ファストな思考のみで生活が回っていく。
皆さんはどうだろうか。
どこまで踏みとどまれているだろうか。
この流れはこれからも加速するだろう。
世界はますます優しくなるし便利になる。
僕たちは考える機会・身体感覚を得る機会を
ますますその優しさと便利さに外注するようになる。
外注することで浮いた優しさや気遣いを、
僕たちは他人に向けることができるだろうか。
今の社会はどうだろうか。
てざわりがなく。
想像もなく。
僕は怖くなって、何かにせき立てられるように
この文章を書いている。
そんなことを考えながら帰路に着いた日。
家の近くの塾から子供達が帰るところだった。
元気に自転車を漕いでいる
彼ら、彼女らの姿はとても眩しかった。
きっと身体感覚にあふれた日々を
送っているのだろう。
言語があることで人は共通の思想をもてる。
それは言語の出現によって宗教ができ、
国家ができたことからも明らかだ。
でも、ひとは、
一人一人違う身体の感覚を身をもって実感し、
個性に溢れる自分という容れ物を味わうことで、
他者の固有性も尊重できるようになるのだと思う。
日々優しくなるファストな世界の中で
今日もスローに生きていく。
僕は最近、散歩を始めた。
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