独自性について
私は一つのことを探究していくことが好きだ。何かに興味を持つと探究せずにはいられない。最終地点を見てみたいのだ。
子供の頃、川の源流はどうなっているのか知りたくて、近所の子供を連れてさかんに山に登ったりしたことを思い出す。
私は楽しいと思っていたのだが、ある日、子供たちの母親が家に来て「うちの子供と遊ばんといてな。あんたと遊んでたら疲れて宿題も出来ないから」と言われてショックを受けたことがある。自分の興味は他人の興味ではないということを悟った。
仕事でもそうだ。徹底的に調べて仮説と検証を繰り返しながら、「究極とは」まで探究していくと誰とも話が合わなくなった。
「学者にでもなるつもり?」「そこまでする必要はあるの?」と言われもした。
最近は絵を描いていると、「絵を描くとは何だ」「アートって何」という探究が始まり出して今では誰とも話が合わなくなった。
毎度のことながらやり過ぎるのだろう。私の中では独自性が生まれたんだと満足している。
独自性は普遍性と関連しているはずだ。独りよがりや好みによって生じるのではないということだ。
独自性を手に入れるなら、世間に通用しないとしても野垂れ死もやむなしだ。
独自性は、追求の果てに誰もいなくなったところが独自性なのかもしれない。ひねくれた考え方ではなく普遍性と並走しなくてはならない、もしくは、普遍性から離れずに追求していくものなのかもしれない。
それは好みを求めるのではなく真実を求める態度が必要なんじゃないかと思う。
ちなみに真実に近づくと多くのことをうまく説明することが出来るようになる。自由になるということでもある。
真実を探究する態度自体が普遍的でもある。
好みを求めつつ同時に普遍的である独自性への態度はカントの哲学とも共通している。
独りよがりと独自性は似ているがだいぶ違うのだ。同じなのは孤独になることだ。
何事もやればやるほど孤独に近づいていく。そうなれば独自性が見えてくるが、変人とも似ているので注意がいる。
こんなことを考えることは、煩わしさよりも楽しさの方が上回るものだが、誰からも相手にされないというのが面白い。独自性なのか。