哲学: 正しさはなぜ必要なのか
明けましておめでとうございます!
ぼくの記事を読んでくれる人は優しい人が多い。それが一番の自慢だ。
そんな人へ向けて、今年は独白的ではなく、わかりやすくを心がけて書くつもりだ。
人生経験豊富な人へ向けてとなると失礼な話にならないかと心配だ。
ぼくの視点は健常であるかどうかに興味を持つ。
「菜食主義が良い!」と言っても、その人の顔色や言動がおかしければ自身への見本にはならないはずだ。
奇妙な精神世界へ入り込んだ人が「正しい」と強弁したとしても従うわけにはいかない。
その人の生き方を「正しいとはいえない」と判断するからだ。
私たちの「正しさ」は、生活を「どう健常に生きるか」にあるはずだ。この意見は正しいはずだ。
「どう病的に生きるか」と考えることはないからだ。
よりよく生きることは、正しさを求めることでもあるように思う。
間違った道は求めた目的地には到着しない。もし間違った道へ迷い込んでも、間違っていることがわかれば正しい道へ向かうことができるはずだ。それは正しい判断をしたからだ。
正しい道がわからなければ永遠に目的地へ到達できないだろう。
また、正しく生きることは品行方正に生きることとは違う。
誰にもケチをつけられずに生きることは立派だが、神経質になり、自分以外は劣っている、自分は優越である、といった心が芽生えるのは必定だからだ。これは健常さにおいて正しくないのだ。
このように正しいようにみえて正しくないものもあるのだ。
とりあえず、こんな感じでもよろしいですか?
今年もよろしくお願いいたします。