「数は正義ではない」それは真実なのだが…
表題にあるような「数は正義ではない」というのは正当だと思うが、「少数こそ正義だ」ともいえないことは正当であることも認めなければならない。
なぜなら数と正義は無関係だと自ら述べているからだ。
このことは先日の兵庫県知事選挙に対する少数の意見から抜粋した。
※ 反対意見の多い私の意見に対して「スキ」を入れるには勇気が必要だと想像するので遠慮なく読み飛して欲しい。
民意を得た斉藤元彦氏に対する反発はいろんな意見を生むようだ。
「民意を得たからといって禊も済んだ」とは言えないという人もいるが、禊を済ますために民意を得ようとしたわけではない。
いろんな人がいろんなことを言うが「もっともらしい話だからといって真実とは限らない」という知識を持たなければならない。
うまく説明することが出来なくなると冒頭のような論点のズレた主張が飛び出る傾向にある。
私は斉藤元彦氏の支持者でも擁護する立場でもないことを明確にしてから話を進める。
進化心理学では「そうすることによって得るメリットとは何か」という所から思考が始まる。よって、「好きか嫌いか」は無視しなければならない。
世間では斉藤元彦氏を「おねだり知識」や「パワハラ知事」と揶揄されるが、その事実は否定されている。
職員に対するパワハラはまだグレーのようだが自殺した職員の原因についても明確にはなっていない。「そういう見方もある」という程度だと思っておいた方がいい。
さて、これが事実だとしてここから何が言えるかを考えなくてはならない。
多くの人は「おねだりする奴はダメな奴」(自分はやってもいいけど)「パワハラする奴は悪い奴」(自分が罵倒する場合は理由があるからだ)「だからアイツは悪い奴」という三段論法に乗せられたはずだ。
しかし、おねだりはなかった、職員に対するものはグレーだとしても地域でのパワハラは否定されているとしたら三段論法は成り立たない。
印象操作の魔法はここで解いておく必要がある。
「いや、そんなことはない!」と言う人には「そうすることによって得るメリットとは何か」という知識をここで働かせればよい。
職員が自殺した原因が斉藤氏にあるのではないかという疑問だけが残る。
その原因に関してはいろんなことが取り沙汰されているが、報道にあるような斉藤氏に明確に起因するものはないことに注意がいる。
報道にあったことがことごとく偽情報だったからといって全てが嘘とはいえないとしても、全てが嘘だったということもあり得る。
注視するべきは好き嫌いではなく嘘か真だけをみようとする態度がいる。
信じる者の数が多いからといって真実ではないが、信じない者の数が多いからといって嘘でもない。
要約すると
「なかったことをあったことにしたい人」
「あったことをなかったことにしたい人」
「なかったことをなかったとしたい人」
「あったことをあったこととしたい人」
に分類される。
真実を探究する者と嘘を真実のように見せかける者との違いはわかりにくいが、嘘と真実には大きな違いがあるはずだ。
正義とは数ではなく「態度」ではないのかと考えるのは私だけではないはずだ。