推論と釣り

私は時折釣りをする。暇つぶしではなく洞察力を磨くためと言えば聞こえがよいが本当にその通りなのである。釣りは仮説と検証の場でもある。
私の哲学は、生まれつきの能力の差ではなく後天的な努力によって現状を創るのだと思っている。後天的努力とは「どう考えるか」という質問の答えをより良いものにしようとすることだ。

魚釣りをする時、ここで魚が釣りたい、釣れんるんじゃないか、と思うものだが、実際に釣れるかどうかはわからない。
釣れることもあるが釣れないこともある。検証してみないとわからないものだ。その結果から「それはなぜなのか」という問いから次へ進められるかどうかは大切だ。
生きることはサバイバル、生き残りのことでもある。
たかが釣りなんだけど、その釣りをうまくコントロールすることすら簡単ではない。
先日、スズキを釣った。ルアーでだ。81センチの大きさで久しぶりのデカさだった。他にも64センチあたりのも二匹釣った。

スズキ 81センチ
スズキ 64センチあたり


釣果よりも大切なのはここからだ。
この釣果に再現性があるかということを検証しなくてはならない。
この日は雨が降った後で少しだけ増水していた。海から1キロあたりの場所で川幅は30〜50メートルあるかないかで、水深は50センチから150センチあたりだろう。
ルアーフィッシングをする人ならご存知のように雨上がりはスズキが釣れる蓋然性は高い。そんな日に出くわしただけなのかもしれない。
そして、後日、再現性を試すために同じ場所で同じ時間、ルアーも同じ、技術も同じ。しかし、釣果はゼロ。
何が影響したのだろう。
そして、一週間後、同じような条件でまた検証した。しかし、釣果はゼロ。
なぜだろうと考えても答えは出ない。
場所でもなく天候でもなく、時間でもなく、技術でもなく、道具でもなく、たまたまなのだろうか。
そう思えなくもないが、では、そのたまたまとは何だろうと考えてしまう。
人間は何かことあるごとに推論を繰り返す。推論せずにはいられないのだ。
刺激に対して反応する生物学の基本は心理にも強く影響している。
残るは仮説は「潮の流れ」である。
後日、大潮の干潮あたりが同じ時間になるよう計画を立てた。釣っている場所は川で干満の差はないが影響がないわけではないはずだ。海から1キロ以上上流であっても影響すると考えた。
釣果は小さなマゴチとスズキ。手応えはあった。チビマゴチはすぐさまリリース。
スズキは手応えから60〜70センチあたりだろう。竿を持ち変えた時に糸が緩んしまったところでジャンプしたスズキはうまく針から逃れてサヨナラだ。
しかし、残念というよりも「助かったね」と安堵の方が上回った。目的は釣り上げることではなく検証なのだ。
私の知らないこの話の疑問に対する答えはすでに知っている釣り人もいるだろう。
しかし、その答えは先天的に知っているのではなく、後天的な経験によって身につけていくものだ。
私は知らないままでいるよりも知りたいのだ。推論の技術を上げることと魚釣りが関連しているとは意外だと思う人もいるだろう。
もし、あなたが推論に自信があるなら魚釣りでその実力を試してみるといい。机上の空論か実践的かは自ずとわかるはずだ。
私はそんなことを考えることを面白いと思っている。