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考察: なぜ考えるのか
思考は「不満」から始まるとしたら、思考を始める人の「不満」は何なのかを知っておくことは大切だ。
ぼくは健康に関することでいろいろ「不満」がある。どうしても健康的な思考とは何なのかについて考えようとする。
今在ることを記憶するのではなく、今在ることから、なかったものを生み出そうとするものだ。
それは「満足」で終わるような答えを引き出さなければならない。
お題を出されて「これは正しいか正しくないか」を考えることとは違うのだ。これは学校教育を背景に持つ人のやり方だ。
答えは初めから用意されていることで理解できるだろう。考えるだけバカらしい。
考えることはサバイバル(生き残り)に使われるものだ。
どう考えればこの難局を乗り越えられるかを問われる思考が、私たちが欲するものではないかと思うのだ。
簡単なものは誰がやっても簡単だ。また、答えが用意されているなら考える必要はない。
誰がやっても難しいことを乗り越えることに価値があるように思える。人間を拡張させるからだ。
思考する者の背景には何があるのか、そういったことは思考の答えに強く影響を与える。
「何となくうまくいっていないなぁ」と思っている人の「不満」から生まれる答えは想像できる。
「恋愛」についての煩悶からの答えは想像できる。
「仕事つまんない」の「不満」の答えも想像できる。
「生きづらい」と言っている人の「不満」は何なのかも想像できる。
「損得」への期待から生まれる答えはだいたい同じだ。
そして、その解決策もだいたいわかる。
ぼくが言いたいのはそういった煩悶についてではなく、人間として乗り越えるべきものについて考えたいと思っている。
そして、あーでもない、こーでもない、と日々悩むのではなく、「満足」によって次の課題へ進むことができることが健常ではないかと思っている。
生きる気力は「どうするべきか」と常にあがいているものだ。
しかし、満足な答えを求めないのなら、考えていないと同じことなのだ。
理性(思考)は、そういったことを解決し、その後も連続していくものだ。