いじめに加担する心
「あの人嫌い」から始まる感情が「いじめ」に発展していくことはよくある。
「だって…」という立派な理由も付いている。
「いじめは何でなくならないのだろう?」といった疑問は昔からあり、今もあり、これからもあり続けるだろう。
これは動物も含めた人間の本能的な心のせいではないだろうか。
気に入らないやつは徹底的に排除しようとする。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、の諺通りに全てが気に入らなくなりサディスティックに拡張していく。
「そんなことないやん」と言おうものなら、今度は矛先がこちらに向かう。
同じように「気に入らない」とこちらが言うまで徹底的に悪口を言う。
自分は正しくて相手が悪いといういつも通りの筋書きだ。
兵庫県の斉藤知事に対するいじめは日本人の悪い面が丸出しになっているようにも思える。
ガセネタをつかまされても訂正もしない。「あの顔つきが気に入らない」「あいつはサイコパスだ」など善悪よりも感情が先走るのだ。
いじめそのものの構図になっていることに早く気づくべきである。
問題は何なのかの真偽を明確にしながら建設的な批判なり批評をするべきではないだろうか。
こんなことをいうからといって斉藤氏のゆかりの者ではないことはハッキリとしておく。
問題解決のはずが、人物の好き嫌い、容姿、態度など問題とは関係のないことを言い始めると、いじめだと捉えられても仕方がない。
あなたは、いじめられたことがあるだろうか。いじめられた人の話をきいたことがあるだろうか。いじめについて真剣に考えたことがあるだろうか。
そういったことに関心のない人は、もしかするといじめに加担していることに気づかないか、いじめっ子の性質があるかもしれない。
いじめは子供だけでなく大人にも普通にある。いじめる理由が正当に思えるかもしれないが、いじめとは正当に思える理由から増長する傾向がある。
そして、いじめは本能的なものであり、つまらぬ個人の好き嫌いから生まれ、悪口によって拡散させようともする。
「まあそのへんで」と理性によって制御されるべきものであるが、ほとんどの人は理性(思考)について学んでいない。だからいじめがなくなることはこれからもないだろう。
こういうと「コイツ生意気な!」という感情が生まれたとしてもいじめないで欲しい。