哲学:新しい真理の発見がないのなら
哲学の世界では、今のところ新しい真理の発見はないといわれる。
心がとらえることのできる世界が限界とはいわないまでも、いっぱいいっぱいになっているのかもしれない。
そうだとしたら、私たちにできることは、それらを詳細に分析するということになりそうだが違う。それらを実践に移し、ふるいにかけることだ。
これまで哲学は、頭の良いといわれる人や哲学研究者によって、実践なくして展開されてきた。
「○○はこう言った」「○○はこうである」という机上の空論の話である。それはファンタジーのように楽しませてくれもしない話に終始する。
「これは真理である」と断言できるのなら実践することに何の不安もないはずなのだが、「解釈している」ということに満足して何も変わらないでいるのが哲学にはある。
生きることは心だけではダメなのだ。身体活動と両輪でないといけないことは証明しなくとも感覚でわかるはずだ。
「私は哲学者だ」と胸を張って言えないのは実践がないからに違いない。
他人の哲学を細かく分析して記憶し、消え入りそうな小さな声で「ぼくは哲学の研究者です」としか言えないのなら、寂しいじゃないか。
このことは心理学で説明できてしまう。
どんな分野でも胸を張って「私は○○だ」と言えるのが理想的だ。
それには実践による経験の蓄積が必要なのではないか。
哲学的信念を実践していくことで「わたしは哲学者だ」と胸を張れるはずだ。簡単なことだ。
「でも間違っていたら…」という心配は無用だ。哲学は間違うものだ。
それでも不安なら、あなたは哲学者よりも哲学研究者に向いているということがわかるはずだ。
それがわかっただけでも儲けもんだ。実践のおかげだ。
理性に従って生きることが人間の生きる目的だともいわれるのが真実なら、哲学の役割はそこにあると思うのだがどうなんだろう。