理性vs利己的遺伝子

向上心のある人や能力を伸ばしたい人、成績が気になる人、他人の評価を気にする人、私たちは他人と自分を比較しながら生きていく環境の中にいる。

リチャード.ドーキンスが「利己的な遺伝子」と名付けた私たちの行動の源は、「生存と繁殖」を有利にするように働く。
その働きが私たちが生きる環境の中で占める割合は最も多いように思える。
能力と思われている優れていることは繁殖の機会を増やすことでもある。
大企業といわれる会社で働くことは、男女共に生涯手にする資本が多くなるというだけではなく、優秀だといわれる伴侶を見つける機会も増やす。
そうでない者は二番手三番手の相手に甘んじることになる。
さらに、そこまでにもいかない者は、生存と繁殖に不利な環境で生きることになるということが一般的だが、考え方を変えると、それがどうしたと思えなくもない。

能力や才能を問いたがる人は多いが、そうするのがなぜなのかと考えることはない。とにかくそれが欲しいのだ。

私はたくさんの人と出会ってきたが、生きることを簡単にするには才能や能力から離れていくことだ。ここが難しい。他人と競うこともやめた方がいい。
そうすることによって、たしかに生存や繁殖の機会を逃すかもしれない。利己的な遺伝子を満足させることはできないかもしれない。だからどうだというのだ。
それらのせいで、いらぬ煩悶が生まれ、競争に巻き込まれ、自己嫌悪や劣等感や敗北感、抑うつ気分に悩むこともある。そして、かなり年齢を重ねて人生をふり返り「本当にこれでよかったのだろうか」と思う時もくる。
それらから解放される手がないわけではないのだ。

哲学では「人間の生きる目的は理性に従って生きることだ」という言い方もある。
理性(思考)は、頑張れば、おそらく利己的な遺伝子の意図を覆すことができるだろう。
しかし、そんな話はつまらないと多くの人は感じる。
おそらく、そういう人は利己的な遺伝子を満足させられているか、満足させられていないかのどちらかだ。

それを乗り越えるのが理性(思考)であることは知っておきたい。

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