“オタク”の定義と被害妄想
約10年前、今よりまだボカロやアニメ、ネット文化に抵抗があった時代。
当時からオタクであった私は、少し生きづらさを感じていました。
好きだけど大声では言いにくい。
誰かと話して共有したいのに仲間を見つけにくい。
ボカロ好きと公言した彼はクラスに居場所が無さそうに見える。
そんな環境で中学時代を過ごした私は、アニメ(特に美少女が出てくるもの)やボカロが好きという話は控えた方が良いと考えるようになりました。
ところがここ数年で、新海誠や京アニのヴァイオレットが話題になることでアニメに対する認識が改まりました。
米津玄師やYOASOBI、ヨルシカが活躍したことでボカロへの抵抗が薄れていきました。
結果、取り残されたのは何故か古参であるはずの私たちだったのです。
サブカル好きの被害妄想
個性が重要視されるようになってから、彼らは平気でオタクと自称するようになりました。
昔、アニメ好きと公言した私へ色々言ってきた人たちも、次々とアニメにハマっていきます。
それでも私はあの頃の感覚が抜けきれず、初対面の人にアニメやボーカロイドが好きと公言するのはためらってしまいます。
こんなことを書いていると「何故昔からずっとファンでいた自分達が一番損をしているのか。」なんて思考になって少し寂しいので、ここからは少し明るい話をします。
始まりが一番楽しい
私はそう思っています。
ボカロもネット文化、ゲーム実況、VTuberも。
全てその文化が形成されてすぐの頃が一番面白く魅力的だと思っています。
例えばボーカロイド
初音ミクは昔、名前と性別、年齢くらいしか定まったプロフィールはありませんでした。
しかも自律しない音楽と歌声のソフトウェア。
とても淡白で捉えどころのない彼女に性格やプロフィールを付け足したのは、古参のファン達でした。
ある人がPVの中でミクにネギを持たせ
当時の視聴者はそれを見て「初音ミクの好物はネギってことにしよう」と考え
今日の今日まで受け継がれる非公式プロフィールになりました。
また、ボカロPは曲や歌詞を通して彼女達に感情を与えました。
VTuberだってそうです。
YouTubeチャンネル登録者数5万人越えでVTuber業界では快挙と言われていた頃。
まだスーパーチャットが浸透しておらず、代わりに皆ファンアートや自作動画等で必死に応援していました。
また、今でも新たなVTuberがデビューすると、その人の呼び名やリスナーの総称、配信開始の挨拶等を視聴者と相談しながら決めていくことがあります。
この自分達で作り上げる感覚。
みんなで応援して押し上げようとする一体感。
これこそが黎明期の魅力だと私は思います。
オタクは知識量ではない
最後に私の意見を書かせてください。
序盤で書いたように、最近はオタクがファッション化されてきている気がします。
詳しいと思われたいからアニメを倍速で視聴して沢山の作品を見る。
ボカロやアニメについてネットで調べ、知識を意識的に身につける。
これらのことが最近問題視されるようになってきました。
(コンテンツが増えすぎて消化しきれないことも原因だと思いますが。)
恐らくこれらの行動は オタク=知識量と考えている人が多いからではないでしょうか?
「え、〇〇君詳しい!すごい!」という具合に。
でも、そんな彼らとボカロやVTuberについて話すと 噛み合わないな と思うことが多々あるのです……。
オタクとは
それに対し、私が考えるオタクの定義は新たな文化やモノを受け入れる早さだと考えています。
何か気持ち悪い。
これを好きと言うと嫌われそう。
ロボットの歌声違和感あるな。
VTuber?こんなん好きな奴って……。
みたいに、最初から周りの目を気にして好きになるか否かを決めたり先入観で拒否してしまう人はオタク気質では無いと私は思います。
裏を返せばオタクが少し白い目で見られるというのは仕方のないことでしょう。
大多数がそのコンテンツを受け入れられない時期に好きになり、ハマって応援する。
周りから彼ら彼女らが理解されにくいのは当然かもしれません。
しかし、そんな環境下でも自分の好きを貫き通した人にしか味わえない喜びは確かに存在します。
周囲に惑わされずコンテンツを愛し続けた数少ない同志としかできない話も沢山あります。
つまり知識は二の次なのです。
受け入れて好きになりハマって知識がつく。
私はこの知識がつくまでの過程が何よりの楽しみだと思います。
皆さんも、まずは少し不気味で曖昧なものを受け入れるところから始めてみてはいかがでしょうか。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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