「くらべて、けみして」
先日フリーランス関係の書籍を買おうと、街中にある大きな本屋さんへ立ち寄った時のこと。
文芸作品が置いてあるフロアには、エスカレーターを降りて右手側に並ぶ大々的な新刊・話題書コーナーとは別に、色んな出版社が一つの本棚を分け合った小さな話題書のコーナーがありました。
年明け前に発売されて気になっていた漫画や、アニメ化されて話題になった作品の設定資料集など。文庫本から画集まで様々置いてある中に、その本は棚に一冊だけ。背表紙を向けて置いてありました。
『くらべて、けみして 校閲部の九重さん』
タイトルを見た瞬間、私は直感的に「これは紙で手元に置いて何度も読むことになるであろう、私が今一番読むべき一冊だ」と感じました。
そしてその予感がついさっき、見事的中。
読んでいる途中から、あまりにも今の自分に内容が染み渡りすぎて感想がびしょびしょ溢れ出てきて止まらないのです。
お気に入りの手帳にも書き殴ってはいるのですが、せっかくなのでnoteにも残させてください。
ここからはただの感想と自分への問いかけになります。今の私の環境や経歴ありきで書いてしまうので、もし気になる方は下のnoteをご覧ください。自己紹介が書いてあります。
『くらべて、けみして』を読んで
一方的な主観読書感想文
この作品には私の憧れの全てが描かれていた。
九重さんが従事する仕事こそ、私がなりたい将来の夢だったのである。
読んでいる時のワクワク感。「こんな仕事がしたい!」という衝動に力強く共鳴する鼓動。それらはちゃんとあの頃のまま、今もしっかり私の中心にあった。
けれど、読み終わった後の焦燥感。これが結構アラサーに染みた。ああ、心臓が痛い。
読んでみて感じたのは「とにかく今、私が書籍の校正として入っても何の役にも立ちそうにない」ということ。
私も校正はフリーター時代を数えるなら6年程はやってきた。それなりの経験値と実績があるのは紛れもない事実である。
でも、それらは対する校正紙の種類が違えば、残念ながら全く必要のないプライドと経歴に過ぎないのだ。
仕事の根本的な作業は、私も九重さんと同じだ。
原稿の誤りを直し、在版や通例との事実確認をし。誤植があれば拾い、疑問を出し、営業に投げかけては校正紙の上で争ったりもする。
刷られる数は何百万枚をゆうに超える。けれど、恐れはしない。それだけの責任と自信を持って、私も日々作品と向かい合っている。
けれど、九重さんに私の仕事はきっと出来ない。勿論それはまた、逆も然り。
私がやっている校正は文字も見るが、基本的には先方の意思や考えを先回りし、ルールに則った上で指摘して、先方好みの紙面に『整った』形で仕上げる、というものだ。
表記揺れ、同号内での見え方の違い、取り扱い商品ごとで異なる紙面割の確認などを主に見ることが多い。つまり、正しい日本語力はあまり必要とされないし、使う機会も殆どない。
それに、上げる疑問の種類も違う。こちらはとにかく先方の意図に合った紙面になっているか。ルールに違反した表記になっていないか。デザインや先方が出した赤字の意味を校正する中で、出てきた疑問を営業に投げるスタイルだ。
そもそも私は『校正』なので特に調べ物はしないし、『校閲』とは着眼点や行動範囲がそもそも違う。
私も九重さんも似て非なる職業に就いているのだ。名前と雰囲気、めっちゃ似てるけど。
私がやりたかったのは、校閲だった。それも書籍の。文字しか書かれていない紙を校閲するのが夢だった。
ずっと似てきたことをやってきた。ちょっと違うけど、まあいいかと思った瞬間もあった。こんなド田舎でやれる校正はこんなもんなんだろう、なんて。
でも、私のやりたい仕事を実際にやっている人がいる。住む場所を言い訳にして、能力がないことを言い訳にして。私は安全地帯で無様に胸を張っているだけなのだ。
じゃあ、私のやってきた6年間は果たして本当に無駄だったのか?多分、それは言い過ぎている。
作品と真剣に向き合い、時には戦い、会社に損害を出させるような大きな失敗も犯し。
それでも信念だけは曲げることなく、私は正しくあろうとした。
校正と校閲。チラシと書籍。私と、九重さん。
それは違って当たり前。それはただ、違っているだけ。
私は今、深い海の底からずっと積み上げてきた経験の上に立っている。おかげさまで溺れる心配もなく、非常に安定した前進が可能になっている。これから急に足を取られることになっても、陸地がすぐ目の前にあることも分かっている。だから、慌てることもない。助けてくれる仲間もいるし。
目の前を凪いでいる、大きな広い海を見る。私の知らない海があることを、私は既に知っている。
どのくらい深いのだろう。もし困ることがあった時は、一体何が私を助けてくれるのだろう。
ほんの一つの希望もない。果てしない海がそこにあるだけ。
上手く泳げる自信がない。今更溺れて死ぬのも怖い。
でも、私の好きな色をしている。一度は飛び込んでみたかった、美しい色彩。この色に彩られた自分の人生はきっと、とんでもなく素晴らしいと分かる。
時間がない。知識もない。生き残れる自信がない。
でも、知りたい。この海が教えてくれること。この海で見られる景色のこと。
ずっとずっと知りたかった。日が暮れてからでは遅すぎる。
じゃあ、今だ!何も持たず、まずは飛び込め!助けなら呼べばいずれ来る。
言葉を知れ。興味を広げろ。視野を持て。
私が“人”であるなら不可能ではないはずだ。
不安という重しがあっても、好奇心という浮力で、人は飛べる。
知ってしまったと思い込んだ『校正』にはまだ続きがあったんだよ。わくわくすると思わないかい?
心に残った個人的メモ
・新潮社の校閲は『百年に残る一冊』を作っている。
・漢字や熟語の変換は辞書に載っているものだけではなく、文豪が使っていた表現を用いられていることもある。
・与えられた時間の中でやれることをやる。
→これは校正でも校閲でも共通の認識。時間をかけても百点は出ない仕事なので、決められた時間内で精一杯を出す仕事。
・作者とは、尊重しつつ、けれど時には図々しく隣に立って、より良い方向へと一緒に歩いていく存在。
⭐︎文は、人そのもの。人の気持ち、文章の気持ち、作者の気持ちを知るためにすることは、辞書を引くことではない。人と会話をすること。それが他者を知り、人を知り、文を知ること。
→正直今の職場を辞めたい理由の一つとしてコミュニケーションコストがかかりすぎていることが挙げられるのだが、実際に人と話していて、自分のミスや認識のズレを正すこともちらほらある。雑談は悪いことばかりではないのも事実だが、もっと紙面に向き合う時間も欲しい……。フリーランスになると言えども、相談出来る人・校正者は知り合っておく必要がありそう。
⭐︎校閲の仕事は「読者に誤った情報を伝えないため」にある。表記揺れは些細なこと。
・最後は責任と覚悟を持って校了とする。
唐突にあとがき
だーっと書いてしまいました。現在noteに打ち込み始めてから、2時間が経過しております。
でも衝動的にここまで語れるほど、私に夢と希望と嫉妬心(笑)を与えてくれた、素晴らしい作品でした。三浦しをんさんが帯を書くのも分かる。きっと心が折れた日や、眠気vs資格勉強の決戦日。私は何度でも九重さんに勇気とやる気を貰いに、ちょっとした甘味を片手にお邪魔するでしょう。
いずれ私も出入りするであろう、新潮社の校閲部の中へ。
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