今回から数回にわたって、佐竹氏が誕生した頃から治承・文治の内乱が始まった頃までのお話しをしていきたいと思います。
佐竹氏の氏祖は佐竹昌義という11世紀末~12世紀に活動した人物であるというのが定説となっていますが、彼の話をする前に、まずはこの方のお話しをしなければなりません。この昌義の祖父になる新羅三郎こと源義光です。
源義光。そうです、佐竹氏は以前お話しした甲斐源氏(武田氏、小笠原氏など)と同じ河内源氏義光流という氏族になります。ということで、今回はこの源義光の話(前半)になります。
源義光、奥州に下る
義光が東国に関わる端緒となったのは、兄・義家(八幡太郎)が行った後三年合戦(※1)への参戦です。
この時義光は都で左兵衛尉(左兵衛府の第三等官)という官職に就いていたにもかかわらず、無断で都を出て、兄・義家のいる奥州へと向かったと伝わります。
義光が左兵衛尉を辞して都を飛び出したというのは確かだったようで、藤原為房の日記『為房卿記』にも、義光が無断で奥州へ下向してしまい、都への呼び戻しにも応じなかったため左兵衛尉を罷免されたとあります(※2)
この義光の行動は、奥州で苦戦する兄・義家を助けるために都の官職をなげうってまで駆けつけたという美談ともされているものですが、義光の狙いとしては、「兄の義家や義綱に対抗するため地方での私勢の拡大」や「義家を助けることで、義家や藤原清衡に恩を売って、その協力や援助を得やすくするため」といったことが指摘されているようです(※3)。
源義光、陸奥国に権益を得る
後三年合戦の後、源義光は兄・義家から陸奥国の依上保(※4)(今の茨城県久慈郡大子町に比定)付近の権益を譲り受けたと言われます。
依上保は陸奥国の南端、常陸国と境を接する八溝山南麓地域にあり、山間の狭い盆地でしたが、古代には砂金を産出することで知られていました。また、保内を久慈川が南北に流れ、これを天然の水路として常陸国や太平洋沿岸地域に出られ、陸奥国(白河方面)や下野国(今のほぼ栃木県)への交通路も通っているという水陸両面の交通の要衝でもありました。
七宮涬三先生によれば、もともとこの依上保は依上郷だったものが、義家が依上郷を都都古別(都都古和気)神社に寄進して「保」(国衙領〔公領、国の土地〕の地域的行政単位)とすることによって成立させたもので、かつて依上保だった場所では義家から義光に所領を与えた所伝が多く残っているとされています(※5)。
七宮先生は地元に残る所伝などを基に考察されておられるようで、述べておられることの典拠は見つけられず確認できませんでしたが、大子町にある近津神社(※6)には義家が康平年間(1058年~1065年)に戦勝祈願をし(※7)、福島県東白川郡棚倉町八槻にある八槻都々古別神社(※8)には義家が社殿を建立したという社伝(※9)が残っており、依上保を含む古代の旧・陸奥国白河郡一帯に義家がなんらかの権益を持っていたらしいことや、『続群書類従』所収の「佐竹氏系図」の一つには、義光のひ孫(昌義の子)にあたる「宗義」という人物の傍注に“依上持玉フ”とあって、佐竹氏が依上保付近の権益を持っていて、義光の頃から引き継いだ可能性もあるので、強ち荒唐無稽な話として片付けられるものでもなさそうです。
(佐竹氏が依上保の権益を持つようになったのは、昌義の代以降になってからという可能性も考えられます)
また、義光が陸奥国に持っていた権益として知られるのは、陸奥国菊田(菊多)庄(福島県いわき市)の権益です。
この庄園の権益を巡って、白河院の近臣(側近)であった藤原顕季とひと悶着あった話が『古事談』(※10)や『十訓抄』(※11)といった説話集に取り上げられています。
『古事談』には単に“所領”、『十訓抄』には“東のかたに知行のところ”とあって、藤原顕季と源義光が権益を争った庄園の名前は具体的に記されていませんが、「佐竹氏系図」(『続群書類従』第五輯上)の一つに、義光の傍書として”六条修理大夫顕季卿。在由緒。東国菊田庄義光被進也(六条修理大夫顕季卿、由緒在り。東国菊田庄を義光に進らさるなり)”とあって、菊田庄の権益をめぐる争いであったことをうかがわせています。
この菊田庄も依上保と同じく、南の境が常陸国に接していて、東海道の菊多関(勿来関の古称)が庄内に存在する、いわば奥州の玄関口にあって、言うまでもなく陸上交通の要衝でした。
そして、海にも面していることから太平洋航路上にある庄園として、奥州沿岸から西国方面にも海路で行き来できる立地にありました。
そのような菊田庄ですが、藤原顕季と源義光はこの庄園のどういう権益を争ったかというと、この争いの仲裁に白河院が入っていることからして、白河院は当時菊田庄の本家(最上位の庄園領主で、領家から庄園の寄進を受けた権門勢家)であり、顕季と義光はこの庄園の領家職(開発領主から寄進を受けた庄園領主)の座を争ったのではないかと考えられています(※12)。
しかし、藤原顕季と源義光がなぜ領家職を争うことになったのか、その原因はわかっていません。『十訓抄』や『古事談』では顕季が領家職の権利を主張することが道理にかなっていると記されていますが、一方の義光はなにを根拠に領家職を主張したのでしょうか。
そもそもこの菊田庄を開発して領家に寄進した人(開発領主)ですら定かではありません。
一説には、菊田庄を含む中世いわき地方に勢力を拡げた岩城氏の祖・平則道の父とされる平安忠が「仁科岩城系図」に菊田権守と記されていることから、安忠が菊田庄を開発した人物だったと推測されていますが、安忠は10世紀中頃~11世紀はじめの頃の人物とされていて、顕季や義光らが活動した12世紀はじめとは100年ほどの開きがあります。そこで『いわき市史』では、この頃義光と関係を深めつつあった常陸平氏が開発領主の立場で義光に寄進(再寄進?)したのではないかとする仮説が立てられています(※13)。
源義光と常陸国
ところで、佐竹氏がのちに勢力を拡げる常陸国(今の茨城県の大半)と源義光の最初の接点はどこにあったのでしょうか。
これまでお話ししてきたのは常陸国に隣接はしているけれども、すべて陸奥国内の話で、義光が常陸国に権益を有していたという話ではありません。
しかし、源義光は12世紀の初頭(1103年~1108年ごろにかけて)、常陸国で自身の甥である源義国と抗争を繰り広げていたことが史料で確認できて、しばらく常陸国に留住していたのがわかっています。これは一体どういうことなのでしょうか。記録に残っていないだけで義光は常陸国にも権益を持っていたのでしょうか。
残念ながら、源義光と常陸国の最初の接点が何であったのか、これもわかっていません。ただ、前節でお話しした依上保と菊田庄、この2つの場所は一見離れているように見えますが、実はこれらを繋ぐものがあります。それは常陸国北部を流れる久慈川です。
野口実先生が、義光のような“軍事貴族・武士にとって武器・武具・馬、さらには情報、またそれらを入手するための富はその存立を支えるものであり、それゆえに、物流の拠点たる水陸交通の要地の確保は差し迫った課題であった“(※14)と述べられるように、もし義光が依上保と菊田庄の両方に権益を持っていたとしたら、それらを繋ぐ久慈川の水利は義光にとって必要不可欠なものだったはずです。つまり、源義光はこの久慈川流域に目をつけ、そこへ自身の勢力を扶植しようとして、常陸国にも進出を図ったとも考えられるのです。
ということで、今回はここまでです。
次回は「佐竹氏以前」後編ということで、源義光と甥の源義国が戦ったという常陸国合戦の話からになります。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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