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【治承~文治の内乱 vol.52】熊野騒乱(前)

前回の冒頭で治承~文治の内乱は単純に平家と源家との戦いではなく、様々な勢力が反乱を起こし、様々な階層の人々が多かれ少なかれ内乱の影響を受けたことをお話ししましたが、今回は紀伊国きいのくに(今の和歌山県、三重県南部)の熊野で起こった騒乱についての話です。


熊野三山と熊野別当

熊野騒乱のお話しをする前に、まず今回の話の土台となる熊野三山くまのさんざんとそれを統括した熊野別当くまのべっとうについてお話ししたいと思います。

熊野三山というのは、本宮ほんぐう新宮しんぐう那智なちの三つの神社(※1)の総称です。

本宮は家津御子神けつみこのかみ家都美御子大神けつみみこのおおかみとも)を主祭神とする神社で、今の熊野本宮大社に当たり、新宮は速玉神はやたまのかみ熊野速玉大神くまのはやたまのおおかみとも)を主祭神とする神社で、今の熊野速玉大社に当たり、那智は牟須美神ふすみのかみ熊野夫須美大神くまのふすみのおおかみとも)を主祭神とする神社で、今の熊野那智大社に当たります。

もともとこの3つの神社はそれぞれ違う神社として信仰されていましたが、11世紀後半ごろになると一体の神社として信仰されるようになり、熊野三山(他に三所権現とか)という言葉が生まれました。

そして、この熊野三山を統括する者を熊野別当くまのべっとうといいます。
この熊野別当はもともと三山の衆徒らの承認を得て、朝廷から補任ぶにん(官職を与えること)されるものでしたが、寛治かんじ4年(1090年)の白河上皇による熊野参詣の時、白河上皇を現地で奉仕した熊野別当の長快ちょうかい法橋ほっきょう(※2)という中央の僧位をはじめて授けられて熊野別当に権威付けがなされると、これをきっかけにして地盤を固めた長快は熊野別当職を自身の一門に世襲させていき、熊野別当職を担う特定の一族(イエ)が誕生することになります。これが熊野別当家(熊野僧綱家そうごうけとも)です。
(ただし、熊野別当の就任にはあくまでも朝廷からの補任が必要であることは従来と変わりません)。

こちらは『紀伊続風土記きいぞくふどき(巻之八十三 牟婁郡第十五 新宮部下)』(※3)という書物に収められている「熊野別当代々次第」という史料を参考に作成した長快ちょうかい(第15代熊野別当)からの熊野別当家の略系図です。

この系図からわかるように、長快の跡は長範ちょうはんが継ぎ、その跡は長範の弟・長兼ちょうけん湛快たんかいへと続いていきます(兄弟が継いでいくのが特徴的で面白いですね)。

さて、この中で長範の子孫は新宮別当家(新宮家)、湛快の子孫が田辺たなべ別当家(田辺家)として熊野別当家の中の有力な家系として分立します。そして、熊野別当は主にこの両家から出されるようになりました。

田辺別当家について

先ほどの系図をご覧いただければおわかりのように、治承~文治の内乱の時期に活動して有名な湛増たんぞう湛快たんかいの子で、田辺別当家の出身ということになりますが、その田辺別当家についてもう少しお話ししたいと思います。

田辺別当家は先ほどもお話ししたように、湛快(第18代熊野別当)から始まる家系で、湛快は当初本宮に拠点を置いて力を蓄えていましたが、その後田辺たなべに新熊野社(田辺宮、今の闘鶏神社)を勧請してそこに拠点を移したために、このように呼ばれるようになりました。

なぜ湛快が田辺に拠点を移したかというと、一番の要因として田辺が熊野での水陸両面の交通の要衝となったことが挙げられます。

先ほど少し話に出しました寛治かんじ4年(1090年)の白河法皇の熊野参詣は、様々な面で「中世の熊野」を形作ったと言っていいほどの画期となったできごとで、その中の一つに参詣路の定着というのがあります。
この時に白河法皇の通った参拝ルートがその後の正式な熊野参詣路、いわば公式参詣路として定着することになったのです。

これまでの熊野参詣路は伊勢国から紀伊国へ入るルート(伊勢路ルート)、または紀伊半島東側から船で新宮みなとに至るルートがメインだったのですが、白河法皇の熊野参詣では、紀伊半島西海岸沿いを南下して田辺に至り、田辺から本宮に向かって山中を通る中辺路なかへちを進むルートが使われました。つまり、田辺は公式参拝路である中辺路の起点となる重要地点となったのです。

地図を用意しましたが、見えにくいので、拡大して御覧ください・・・すみませぬ・・・

また、田辺は古代から使われていた牟婁むろの津があった場所で、海上交通における拠点ともなっていました。

湛快はこうした人や物が集まる場所に直接拠点を置くことで、田辺別当家の実力をどんどん高めていったと思われます。ちなみに、新宮別当家はその名の通り、従来からの熊野別当の拠点であった新宮に拠点を置いていて、これまた熊野の海上交通の拠点だった新宮湊をおさえていました。湛快が田辺に拠点を移したのは、新宮のように海への進出を果たそうとする狙いもあったものと思われます。

ということで、これらの事情を踏まえて今回の「熊野騒乱(前)」の話を進めたいと思います。(前置き今まで以上に長かったかも?笑)

熊野騒乱の勃発

藤原(九条)兼実かねざねの日記『玉葉』の治承4年(1180年)9月3日条にはこのような記事があります。

“伝え聞いた。熊野権別当ごんのべっとう湛増たんぞうが謀叛した。弟の湛覚たんかくの城と所領内の人家数千軒を焼き払い、鹿ヶ瀬ししがせ峠以南をすべて掠め取ってしまった。行朝ぎょうちょう?は湛増に同意したといい、この事は先月中旬ころの事だということだ。”

(読み下し)
伝え聞く、熊野権別当湛増謀叛す。その弟湛覚の城及び所領の人家数千宇を焼き払ひ、鹿瀬以南しかしながら掠領りゃくりょうおわんぬ。行朝同意すと云々うんぬん。この事去月中旬ころの事と云々。

『玉葉』治承四年九月三日条より

これが信頼できる史料で熊野での騒乱を伝える最初の記事になります。
このように熊野権別当の湛増とその弟・湛覚が原因はわからないものの、激しく対立していたことから田辺別当家の内紛が起きたことを見て取れます。

しかし、その湛増に「行朝ぎょうちょう?」なる者が同意したとあるのですが、彼は田辺別当家の人間ではなく、どうやら新宮別当家の者だったと法諱(法名・戒名)から推察できることから(※4)、この騒乱は田辺別当家の内部だけでなく、新宮別当家の一部をも巻き込んだ争いだったこともうかがわれます。

そして、9月11日には熊野別当であった範智はんち(第20代・新宮別当家)が湛増に与力(=助力)し、19日には騒乱がますます熾烈になって、日を追って事態がどんどん悪化していってるらしいことが藤原兼実に伝わりますが、同じく熊野の情報を掴んでいたと思われる朝廷はこの期に及んでも特に対応しませんでした。

朝廷がこの時点で特に対応を取らなかった理由はわかりませんが、熊野の騒乱の情報とほぼ同時に伝わった東国の反乱(頼朝らの挙兵)への対応を優先させたからかもしれません。ただ、藤原(中山)忠親ただちかの日記『山槐記さんかいき』を見てみると、頼朝の謀叛について記されてはいても、熊野の騒乱については一切その記述が見えないことから、熊野の状況について朝廷が兼実ほど把握してなかった可能性もあります(兼実は熊野についての情報網を独自に持っていたのかもしれませんね)。

朝廷の対応

翌月(10月)に入ると、朝廷は悪化する熊野の状況にようやく対応を取ったようです。このことはなぜか藤原兼実の『玉葉』に見えないのですが、『百練抄ひゃくれんしょう(※5)』の治承4年(1180年)10月6日条に湛増追討の宣旨せんじが熊野に住む者たちに出されたとあります。
そしてこの宣旨の内容は『仁和寺諸記抄にんなじしょきしょう』の中にある「北(喜多)院御室みむろ御日次記抜萃ばっすい」(※6)という史料で知る事が出来ますので、ちょっと書き出してみます。

"治承4年10月12日辛卯かのと-う。熊野の湛増を召喚する宣旨(上卿しょうけい〔執行の責任者〕は検非違使けびいし別当左衛門督さえもんのかみ・平時忠。今月6日に出されたという。今日初めてこれを目にする。)
熊野山前権別当さきのごんのべっとう湛増は去年10月頃、舎弟である法眼ほうげん湛覚を殺害しようとしたとの申し出があったため、事の真偽を確かめるべく、湛増を召喚したが、(彼は)みだりに城を構え、京に参る心なく、少しも朝廷を恐れず、ますます道理にもとる行為(=狼藉)を致し、ある時には権門勢家けんもんせいか(=有力貴族や寺社)の所領を焼き払い、ある時は諸国を往来する船をかすめ取るなど、犯した罪の至り、前にも後にも幾重にも重なっている。朝廷の綱紀に照らして当然このような行為はやめさせなければならない。早く熊野別当であり、法印ほういん範智はんちはじめ熊野在住の者たちはよろしく湛増の身柄を拘束して差し出せ。
蔵人頭くろうどのとう左中弁さちゅうべん 藤原経房つねふさ(吉田経房)奉ずる"

(読み下し)
治承四年十月十二日辛卯。熊野の湛増を召さる宣旨〔上卿は別当左衛門督時忠。今月六日と云々うんぬん。今日始めてこれを見る。〕
熊野山前権別当湛増、去年十月ころ、舎弟の法眼湛覚を殺害せんと欲する由、言上せしむるに依り、真偽を決せんが為、その身を召すといへども、みだりに城郭を構へ、参洛の心無く、えて鳳衙ほうがを恐れず、いよいよ狼戻ろうれいを致す。あるいは権門勢家の領を焼き払ひ、或いは諸国往反の船を掠め取りて罪科の至り、前後に重畳ちょうじょうす。朝章ちょうしょう指す所もっと禁遏きんあつすべし。早くの山の別当法印範智已下いげ常住のともがら、宜しく彼の湛増を召しまいらしむべし。
蔵人頭左中弁藤原経房 奉ず

「北(喜多)院御室御日次記抜萃」(『続群書類従』第三十一輯下 雑部 所収)より

これによれば湛増たんぞうは弟・湛覚たんかく治承じしょう3年(1179年)10月頃から対立していて、その争いの中で湛増は権門勢家けんもんせいかの所領においての乱暴狼藉、または近海で海賊行為を行っていたようです。ただ、これら湛増の所業を朝廷に訴えたのはおそらく湛覚側であろうことから、湛増の行為を過大に訴えた可能性もあり、この通り湛増が暴れまわっていたと断じることには注意が必要です。
とは言え、このように朝廷から湛増の逮捕が命じられているので、湛増が逆賊の立場になってしまったのは確かです。

ちなみに、『百練抄』では“湛増追討の宣旨”とされているのに対して、「北院御室御日次記」では“湛増召進しょうしん(身柄を送ること)の宣旨”となっています。また、『百練抄』では湛増を“熊野前別当さきのべっとう”としていますが、「北院御室御日次記」では“前権別当さきのごんのべっとう”としていて異なります。
しかし、この当時に熊野前別当と言ったら行範ぎょうはん(第19代)を指し、『玉葉』でも湛増を“権別当ごんのべっとう”としているので、『百練抄』の方が誤りであると思われます。もっとも、『百練抄』は亀山天皇の在位中(正元しょうげん1年〔1259年)~文永ぶんえい11年〔1274年〕)成立の史書と考えられており、一方の「北院御室御日次記」はリアルタイムでしかも自筆の記録なので、信頼できるのは言うまでもなく「北院御室御日次記」の方です。したがって、この時出された宣旨は“湛増追討”ではなく、湛増の召進しょうしん(身柄を送ること)を命じるものであったと考えた方が良さそうです。

湛増の恭順

朝廷から湛増を召進を命じた宣旨が出されてからもしばらくは熊野の情勢に変化はなかったようで、『玉葉』の治承4年11月1日条には「湛増がいよいよ勢いづいたか」と湛増の優勢を筆者の藤原兼実がうかがう記述があります。

しかし、この記述からわずか2週間余り後の11月17日、『玉葉』にこのような記述が出てきます。

”また聞いた。熊野権別当湛増、子息である僧を(朝廷に)差し出した。これによって、(朝廷は彼の)罪をゆるしたという。”

又聞く、熊野権別当湛増、その息僧をまいらしむ。よつ宥免ゆうめん有りと云々。

『玉葉』治承四年十一月十七日条より

これまで朝廷に反抗的態度をとって、勢いづいていたらしい湛増がここへきて息子を朝廷に差し出すことで恭順の姿勢を取り、朝廷もそんな湛増を許したというのです。

なぜ湛増が朝廷への態度を変化させたのか、残念ながら定かではありません。すぐに考えつくのは、実際の湛増は『玉葉』の記述とはうらはらに、宣旨が出されたことで勢いづくどころか、逆に勢いをなくして徐々に追い込まれていったか、湛増は依然勢いに乗るものの朝廷に逆らうことはやはり得策ではないと方針転換したものかということですが、想像の範囲から抜けることはできません。

ともあれ、これ以後『玉葉』に今回湛増が起こした騒乱に関する記述はなくなり、熊野の騒乱はひとまず鎮静化したような格好となりました。

治承4年の熊野騒乱について(まとめ)

今回は『玉葉』の記述を中心に熊野騒乱についてのお話しをしました。
改めて騒乱のあらましをお話しするとこのようになると思われます。

‟治承4年8月半ば頃に起った熊野騒乱は田辺別当家の内紛、つまり湛増たんぞう湛覚たんかく兄弟の争いが主軸だった。
そして、その争いの中で湛増は権門勢家けんもんせいかの所領への狼藉、近海での海賊行為などを行ったために、湛覚側から湛増の非法について朝廷へ訴えられ、朝廷は事情聴取のために湛増の召喚を命じたものの、湛増はこれを無視。そのため朝廷から熊野別当・範智はんちはじめ他の熊野僧綱そうこう(僧官)たちに湛増召進の宣旨が出されるに至って、これまで中立・静観の姿勢をとっていた者たちまでが反湛増へ回ることになり、これまで優位に事を進めてきた湛増は一気に形勢が悪化してしまう。
そこで湛増は子息を朝廷へ差し出すことで恭順の姿勢に転換し、朝廷も彼を宥免ゆうめん(罪を減じて許すこと)して、田辺別当家の内紛に端を発する騒乱はひとまず鎮静化した。”

という経緯が想定できます。ただこの経緯の骨となる『玉葉』の記述も筆者の藤原(九条)兼実かねざねが伝え聞いた話として書き留めただけであり、また、当時の熊野別当であった範智(第20代)の姿勢が結局湛増に協力的だったのか、中立的だったのか判然としないため(『玉葉』には範智が湛増に与力したとある一方で、湛増召進の宣旨は範智らに宛てられている)、この通りの経緯だったのか断定できません。


ということで、次回はもう一つの熊野騒乱、『平家物語』のみが語る「熊野新宮合戦」についてです。また、今回お話しした湛増による熊野騒乱は文中でわざと”ひとまず鎮静化”と強調したんですが、翌治承5年(1181年)に入ると、湛増の活動は割と静かであるのに対し、その代わりとばかり今度は「熊野法師原」「熊野の悪徒」などと呼ばれ、「湛増の従類」と称する集団が隣国(伊勢・志摩・阿波)で暴れまわり、熊野でも新宮別当家の行命ぎょうめいが平家の許に亡命したり、湛覚も結局熊野を追われたりしたようで、なにやら水面下で事態が動いていて、まだ騒乱は落着していなかったようなのです。これは次々回、後編でお話ししようと思います。

それでは最後までお読みいただきありがとうございました。

⇒次回

註)
※1・・・この頃の神社は今の神社と違って仏教寺院の性格も持っていました。神仏習合しんぶつしゅうごうといって、日本古来の信仰(今でいう神道)と仏教が密接に結びついた信仰が主流だったためで、この熊野三山も仏教寺院的性格を多分に持っていました。
※2・・・法眼ほうげんについて。法眼は法眼和尚かしょう位と言って僧位の一つです。僧官の階級には僧正そうじょう僧都そうづ律師りっしの3つがありましたが、のちに法印大和尚位(法印ほういん)・法眼和尚位(法眼)・法橋上人しょうにん位(法橋ほっきょう)の3つが新たに僧位として制定されて、僧正が法印、僧都が法眼、律師が法橋に相当するとされました。またこれらをひっくるめて僧綱そうごうと言って僧尼を監督して諸寺院を管理する職、いわば寺院の役員・管理職のようなものでした。熊野では「熊野僧綱」「那智山僧綱」などと呼ばれました。また、熊野には三山を統括する検校けんぎょうと呼ばれる役職があり、天台宗寺門派(園城寺が総本山)により相承(受け継がれること)されてきましたが、これは名誉職で実質的な統括はその下に位置する熊野別当が行いました。
※3・・・『紀伊続風土記』は江戸後期の文化年間(1804年~1817年)のはじめに徳川幕府の命によって紀州藩が編纂した紀伊国の地誌です。紀州藩の儒臣(儒学をもって仕える家臣)である仁井田好古にいだこうこ(仁井田模一郎もいちろう、1772年~1852年)を総裁とし、幾度かの編纂中断を経て、多数の者の協力を得ながら天保10年(1839年)に完成しました。この地誌は同時代に編纂された他地域の地誌に比べて、出典を明らかにした上で検証がされており、紀伊国の地勢、歴史、風土などを調べるにあたってとても参考になる資料です。
※4・・・行朝が何者かは不明ですが、『紀伊続風土記』では「ちょう」の音が「ちゅう」の音に似るということから第19代熊野別当の行範ぎょうはんの子である行忠ぎょうちゅうの誤りであろうとしていますが、宮地直一先生はこれを否定されています。また、宮地先生は『熊野別当系図』に湛増の伯父・長憲の玄孫に「行朝」がいますが、これはあまりにも時代が下っているとして、該当する人物ではないとしています。
※5・・・百練抄は編者未詳の編年史で十七巻あり、うち巻一~巻三は散逸してしまってます。現存記事の範囲は冷泉天皇の代(在位:967年~969年)から亀山天皇即位の正元1年(1259年)12月までとなっています。記事を編修する際には、多くの貴族の日記を利用したらしい痕跡が認められるものの、出典が明記されていないことが多いことからどこから引用されたものなのか指摘ができません。現在伝わる『百練抄』は、嘉元2年(1304年)に北条(金沢かねさわ貞顕さだあきが吉田定房さだふさ万里小路宣房までのこうじのぶふさが所蔵していた写本を借用して書写校合した金澤文庫本が祖本となっていますが(これは現存せず)、神宮文庫所蔵の旧宮崎文庫本がその忠実な模写本として知られています。
※6・・・『仁和寺諸記抄』は『続群書類従』第三十一輯 下に所収される史料で、仁和寺に残る諸記録を抄録したものです。そしてその中にある「北(喜多)院御室御日次記抜萃」はその名の通り、北院御室(守覚法親王しゅかくほっしんのう、以仁王の同母弟)自筆の日記から抜粋されたものになります。

(参考)
高橋修「別当湛増と熊野水軍ーその政治史的考察ー」(『ヒストリア』第146号 大阪歴史学会 1995年)
高橋修 編『熊野水軍のさとー紀州安宅氏・小山氏の遺産ー』 清文堂出版  2009年
和歌山地方史研究会編『地方史研究の最前線 紀州・和歌山』 清文堂出版  2020年
小山靖憲・武内雅人・栄原永遠男・弓倉弘年・笠原正夫・高嶋雅明著
『和歌山県の歴史』県史30 山川出版社 2015年
小山靖憲『熊野古道』岩波新書 新赤版665 岩波書店 2004年
小山靖憲・笠原正夫編『南紀と熊野古道』街道の日本史36 吉川弘文館 2003年
上杉和彦『源平の争乱』戦争の日本史6 第三刷 吉川弘文館 2012年
谷川健一・三石学編『海の熊野』 森話社 2011年 
宮地直一『熊野三山の史的研究』遺稿集 第1巻 国民信仰研究所 1954年
仁井田好古編『紀伊続風土記(三)』歴史図書社 1970年
国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧)



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