私が支援につながるまで「大人の発達障害かもしれない」② ~元引きこもり店主 手作りおやつ工房とさか~
私には価値がない。孤独を感じた結婚生活
都内のレストランに勤めていた時に交際していた人と1度目の結婚。真面目でやさしい人で、学歴や勤め先もみんなから羨ましがられ、両親にも「ようやくあんたも落ち着いたね」と喜ばれ、当初は「これからはちゃんと親孝行しよう」と思いました。
とてもやさしいパートナーでしたが、仕事が多忙でいつも深夜の帰宅。もともとインドア派で、休日は昼過ぎまで寝て自室でパソコンに向かうことが多くて、私は家事をきっちりやって、趣味のスポーツによく出かけました。時々、「一緒に出かけよう。近所の公園とかスーパーの買い物でいいから」と言ったけれど、仕事で疲れているのに無理強いはできない。収入が減ったり転勤があってもいいから、もう少し楽な仕事に転職したら?と提案したけれどそのままになっていました。
既にこの頃から、時々私は情緒不安定で自殺をほのめかしたり感情の爆発などあって、「心療内科とか行ってみようか」と夫婦で話したことがあったのですが、落ち着いている期間もあり先延ばしになっていました。
そんな中、趣味のスポーツで出会った男性がよく練習相手になってくれて、ある日「お前がいないと俺は生きていけない」と告白されました。私は結婚生活で、パートナーの力に何もなれていない、むしろ「日頃何もしてやれないから」と記念日に高価なプレゼントをもらったり、趣味のスポーツを自由にさせてくれたりと足手まといになっているとか罪悪感を感じたりしていたので、私を必要としてくれる人がいるならと、深い仲でもないのに「好きな人ができたから離婚してほしい」と突きつけてしまいました。
一度決めたら頑固な私を説得するのを諦めたパートナーは、「お前が望むなら…ただしちゃんとけじめはつけよう」とものすごく傷ついてたはずなのに、最後まで私を尊重してくれました。その愛情が当時の私には分かりませんでした。おそらく、子どもの頃親の支配が当たり前だったため、自由にさせてくれたパートナーのことを「この人は私のことをどうでもいいと思ってるんだ」と理解したんだと思います。
2度目の結婚生活は精神的DVの日々
「お前がいないと俺は生きていけない」と言った人と新しい生活を始めて間もなく妊娠が分かりました。つわりが始まっていたのですが、離婚や新生活のストレスで体調不良が続くのだろうと思い、鎮痛剤を飲んで仕事をしていました。体調不良の私を見てパートナーはいつも不機嫌で、出会った頃とは別人のように乱暴になり、飲みに行って連絡もなく帰らない日もありました。生理がしばらくこないと心配になり婦人科に行って、「おめでとうございます!」と言われた時は泣き崩れてしまいました。
離婚の時に父から「勘当だ!」と言われ実家は頼れないし、義母は干渉が酷く、しょっちゅう呼び出されて携帯電話が鳴ることに恐怖すら覚えていたのでとてもじゃないけれど頼れず、パートナーに「妊娠してるって…どうしよう」と言ったら「俺は知らない」の一言でそれ以上話ができませんでした。
当時、早朝のスーパーの品出しのアルバイトをしていたので、お腹が大きくなったら働けなくなって収入に困るし、新生児遺棄などのニュースがふとよぎり、数年後の自分の姿が怖くなり、中絶することにしました。術後私の精神状態はますます悪化し、過量服薬で自殺未遂、パートナーの態度もますます酷くなりました。
私が悪いからパートナーは暴力的なんだ
パートナーとの関係は全く良くなかったのに、「結婚したらきっと変わる」と信じ、約束していた時期に婚姻届を提出しました。その時はパートナーも上機嫌で指輪を買ってくれ、職場や友人達に自慢げにアピールしていました。結婚式はしなかったけれどお祝いを頂いてたらしいですが、全てパートナーの飲み代やパチンコ代に消えました。知らされていなかった私は、義母から「お礼の一つも言わないで!」と責められました。
どうしたらパートナーと関係を修復できるか、私のどこを直したらいいのか悩み、夫婦問題を扱うカウンセリングを受けることにしました。何度か受けて、「うーん、パートナーとのことより、まさよさんがどう生きていきたいか考えない?」と言われ、幼少期や親子関係を振り返るきっかけになりました。
続く