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【読書】リア王 シェイクスピア(感想と考察)


お前たちのうち、誰が一番この父の事を思うておるか、それが知りたい、最大の贈物はその者に与えられよう、情けにおいても、義理においても、それこそ当然の権利というべきだ。 

『リア王』その凄惨たる人間ドラマと飽くなき人間の欲望、善悪の区別すら揺るがされる大作。始めてのシェイクスピア作品を読み終えて、読書とは言えないような、本当に劇場で鑑賞しているかのような感動を受けました。感想と考察をできるだけ事細かく残しておきたいと思います。

あらすじ

 ブリテンのリア王。王はその地位を退くにあたり、3人の娘に全財産を分け与えようとしていた。土地、金銭、権力を譲渡したのち、娘たちの下で隠居生活を送ろうと考えていたのだ。譲渡の日、長女(ゴネリル)次女(リーガン)は美辞麗句を並べ滞りなく譲渡を済ませる。三女(コーディーリア)は美辞麗句を述べることなく忌憚のない意見を王に述べた。王は激怒し、三女を追放してしまう。
 長女のもとで生活するようになった王だったが、(王の)100人の従者と長女の従者との間で不和となり、王は次女の元を訪れる。しかし、次女も姉と同じ意見で、王を受け入れようとしなかった。権力も地位も親不孝な娘に渡してしまった王に行くところはなく、精神を毀してしまう。
 時を同じくして、父と兄を陥れてすべてを手に入れようとする「エドマンド」が、兄・父を陥れて、次女と長女に取り込んでゆく。
 ブリテンの杜撰な内情は、敵対するフランスに筒抜けになっており、両国は戦争へと発展する。フランス王は、追放された三女の夫であった。王はフランスの三女のもとにいた。
 ブリテンはフランスに勝利し、リア王と三女はエドマンドの手によって牢に繋がれた。戦争直後、三女をかばって同じく追放された家臣ケントと弟エドマンドによって騙され逃亡した兄エドガーが、エドマンド、長女・次女の罪を公にする。
 長女は次女を殺して自ら命を絶ち、エドマンドはエドガーに討ち果たされる。しかし、エドマンドの命令によって三女コーディーリアは殺されてしまった後だった。
 真に自分を愛してくれていた三女の死に、嘆き悲しむ王も悲しみのうちにその生涯の幕を下ろす。
私ならお姉さま方のように結婚などしないでしょう、お父上一人にすべてを捧げたいと思うなら。ー確かに私は、心に無い事を聞きよく滑らかにこと回す術を知りませぬ、こうしようと思った事は口にだすより先に、まず行いにと考えるからにございます

「愛情」は分け隔てなく施せるものではないことを、三女コーディーリアはよくわかっていました。上の姉たちの美辞麗句が本心から出たことでないことも。けれど、「正直」というものはときに、「嘘」より残酷であることに気づかされる場面。愛のある真実か愛のない嘘を選択しなければならないときが、人間には多く存在するのではと感じました。結局、王は愛のない嘘によって破滅の一途をたどります。

見せかけの権威のみが、知覚も理性も俺を裏切り、自分には娘があると、ただそう思い込んでいただけのことかもしれぬのだ。

知覚や理性、知恵を奪うものーそれは「見せかけの権威」もっといえば「立場」や「自惚れ」なのかもしれません。親子の愛情を捻じ曲げたもの。それは、権威や権利への執着・損得という感情だと感じます。遺産相続の問題が絶えないのは、本当はありもしない財産(土地だってお金だって死ねば自分のものではなくなる)に固執するせいだと、リア王が気付き始めるばめんです。人間が本当に「自分のもの」と言い張れるもの。それはなんなのか、やはり、自分の心ひとつだけなのかもしれません。

親爺ぼろきりゃ子は見て見ぬふり、親爺財布もちゃ子は猫かぶり、運の女神は名うての女郎、銭のないのにゃぁ何で戸をあけよう。

 親を利用する子供、親への愛情があるのではなく、親のお金のみを欲してる子供。「子供の権利」が国連で義務付けられてから、当たり前ともいえるようになったこの風習が本当にいいものなのか疑問です。「権利」があるのなら「義務」もあってしかりなはず。子供の「義務」についてだけがすっぽりと抜け落ちた世界になってしまっているかのように思えます。

 「親が子を養う」のは当然であれば、親が年を取り、衰えたら「子が親を養う」のは当然なのではないでしょうか。子供は親にとって一生子どもだし、親は子供にとって一生親である。だからこそ、一方的な関係であってはいけないと思うのです。

如何に賤しい乞食でも、そのとるに取るに足らぬ持ち物の中に、何か余計な物を持っている。自然が必要とする以外の物を禁じてみるがよい、人間の暮らしは畜生同然のみじめなものとなろう。

「余計なもの」を持たない人々=ミニマリストと認識されるようになった現代ですが、本当に人間にとって最小限のものって何なのでしょうか?

ミニマリストー綱領派と訳す。最小限度の要求を掲げる社会主義者の一派をいう。かつてロシア社会革命党内の妥協的な穏健分子がこう呼ばれた。(引用・コトバンク)

 本さえあれば生きていけると言う人間(ぼくのような)も居れば、スマホさえあればいい、なんて人もいて、多種多様です。でも人間が生きていくために本当にスマホは必要でしょうか。ミニマリストの方で、スマホを持っていない人とであった事がないので、「誰しも余計なものを持っている」という王の発言は正しいのかもしれません。さらに言えば、「必要」か「不必要」かなんて誰にも分らいのではないかと思いました。

頑な人というものは、みずから招いた禍いを己の師とせねばなりますまい。

 リア王と三女のコーディーリアについて、「頑な」という共通の性質を持っていました。人の忠告を聞き入れることは世間的に正しいとされます。しかし、後から考えれば、他人の意見などあてにしなければ良かったという場面も多々あるのではないでしょうか。思うようにいかなかったとき、「誰かのせい」にするくらいなら、自分を突き通すほうが良いときもあるのかもしれません。

貧乏というのは余程不思議な魔術だぞ、それを用いると、下らぬものが貴重に見えてくるからだ。

「お金」によって価値観が変わるのは言わずもがなです。一貫3000円の寿司を食べる人にとって、一貫100円の寿司の価値が同じではないように。だからこそ、「お金では買えないもの」に価値があるのではないでしょうか。リア王がいくらお金を積もうと、自分の望む家族のあり方をすることができないのだから。

 ぼくたちが財産とみなしている中には、「愛情」「友情」はあるのでしょうか。ときに、それらは「命」よりも貴いものとなる。にわかには信じられないようなこの事実を『リア王』は教えてくれます。

人間、外から付けた物を剝がしてしまえば、皆、貴様と同じ哀れな裸の二足獣にすぎぬ。

 人間に「不出来」や「出来」・「高尚」や「低俗」などない。そう感じる一文です。先進国や発展途上国があって、男と女がいて(そこには男尊女卑のような風習があって)、大人と子供がいて、貧乏と裕福があって、勝ち組と負け組なんて言葉がある。同じ人間なのに…

 善も悪もない。そこをはき違えているのだと思う。ニュースに流れる人の死にも、当事者にしかわかるはずもないことを、世間があれやこれやと騒ぎ立てる。「人を殺さなければならないとき」があるのかもしれない、という想像もせずに。ある意味で、善と悪に明確な基準ができてしまえば、それこそ悲惨な結末が待っていると思う。「自殺や自傷」が罪深いことならば、その罪を受けるのは遺族なのだろうか。

 世の中には、おおよそ「善」よ「悪」では図り切れないことがたくさんある。盲目になってはならない。想像をやめてはならない。そんなシェイクスピアの声が聞こえるようだ。

人間、どん底まで落ちてしまえば、詰まり、運の女神に見放され、この世の最低の境涯に身を置けば、常に、在るものは希望だけ、不安の種は何もない。人生の悲哀は天辺からの転落にある、どん底を極めれば笑いに還るはほかはない。

「今日を生きるので精一杯」という人間が、日の出を見た時に心から感謝する。「明日も当然のように安心して生きれる」という人間が。日の出を見ても何も感じない。やがては、「初日の出」などと、ありもしない価値をつけてあやかる。それが、「死」を意識しなくなった人間のなれのはてではないでしょうか。

 「ありがたみ」が消え失せてゆく世界で生きる。ぼくらは気が付けば、なにもかもを「当たり前」に変えてしまう。それがたまらなく嫌です。ご飯を平気で残す家で育った子供が、学校の食育で「すべての生き物に感謝する」なんてことができないように。人間をどんどん「つまらないもの」に変えていくのは「人間自身」だということ。それを常に理解していたいと思います。

有るものに頼れば隙が生じる、失えば、かえってそれが強みになるものなのだ。

「犠牲」を払うこと。それが前述した「当たり前」を脱却する方法なのだと感じます。そして、人間には「想像力」がある。失うことを想像できるはずです。「もし、大切な人と会えるのが今日で最後だったら」「もし、お腹いっぱい食べれるのが今日で最後だったら」「もし、明日死んでしまうとしたら」想像すべきことはたくさんあると思うのです。そして、そこに「しあわせ」への気付きがあるのだとも感じます。

余計なものを貯え、己の欲望を恣に満たすのは、正に天の課した秩序を私するに斉しく、心に感じぬがゆえに目にも見えぬのだろう。

「心に感じぬがゆえに目も見えぬのだろう」それが「無知」なのだと思います。見えずとも確かに在るもの「愛」に気づけないのは、感じることができないから。

 ヘレンケラーがサリバン先生に「冷たい!」と感じさせてもらうことで「水」を知っように、感じ、感じさせること。そのために「言葉」や「表情」「仕草」を使えればなぁと感じます。実態のない「言葉」によって人を死に追いやることも出来れば、人を生に向かわすこともできる。音楽や詩があって人の心を癒す。赤ちゃんはお母さんの「笑顔」から安心を得るように、ぼくたちには心を救う手立てを常に持っている。その事実に無知でいてはいけないと感じるのです。

知恵も徳も悪人の目には悪としか映らぬらしい、汚物はまさに汚物をこのむ。

 「賢者は愚者に学び、愚者は賢者に学ばず」という言葉もある通り、「想像しない」人間にとって、好意を好意とうけとれず、善意を悪意にはき違えてしまう。リア王が王を唯一愛していた、コーディーリアを追放してしまったのも、「自分の見たいように見て、自分の感じたいように感じた」からです。

 「嫌なことを言う」ひとが自分の事を親身に考えてくれる場合もあれば、「良いこと」を言っている人が、自分の事を全く大切にしていないなんてことが本当によくあることを感じます。『もののけ姫』のアシタカが「曇りなき目で、物事を見極めたい」と言い、人間のことも、もののけのことも見て、学んでいったように、偏らない為に学び続けることを大切にしたいなと感じました。

この世の成り行きを見るのに目は口要らぬ。耳で見ろ。

「耳で見る」とはどういうことか、まだはっきりとは分かりませんが、人間には視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚がある。五感を駆使して物事を考えなければならないと受け取りました。

 小さな哺乳類だったころ、大型の動物から命を守るために発達してきた感覚器官。足りないものを補うための感覚器官を使い切れてはいないこと、もしくは、感覚に頼りすぎるなということなのでしょうか。

まとめ

 初めてのシェイクスピア作品。冒頭でも述べたように、終始圧倒されっぱなしでした。

 そして、人間の本質は大昔からちっとも変ってはいないのだなぁと、見せつけられました。いつの世になっても「権利」や「欲」によって自滅してゆく人間。大きな地球のなかで、小さな人間達が「井の中の蛙大海を知らぬ」とひしめき合っている。生物に命に大も小もありはしないのに、いつまでたっても気づかない人間。

 多くの登場人物のセリフのみによって、進んでゆく物語は、一つ一つの会話の中に気づきがあって、その人が犯す過ちがあって、信念がある。読めば読むほど新鮮にんる驚愕の一冊です。

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紬糸
貴重な時間をいただきありがとうございます。コメントが何よりの励みになります。いただいた時間に恥じぬよう、文章を綴っていきたいと思います。

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