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日々瞑想する人からみた「悟り」
英語で「悟り」はenlightenmentと訳します。enlightenを直訳すると
「光で明るく照らす」
になります。``light"が入っている以上「光」に焦点が当てられています。
一方で、日本語の悟りは
「迷いの世界を超え、真理を体得すること」
といった意味になります。
執着・欲望を手放した先に至りつく何か
といったニュアンスでしょうか。そう考えると、
英語と日本語の「悟り」のとらえ方が(実は全く)違います。
The final realizing
あたりが日本語の「悟り」に対する実際の英訳だと言えそうです。
私は或る業界の幹部として働いています。
日々重大な判断・決断に迫られるので、
そのジャッジを研ぎ澄ますために毎晩座禅瞑想します。
瞑想の最初の方は色々な想念が沸きますが、一時間過ぎたあたりから「パチン!」とスイッチが入ったかのように想念が消え去ります。
その気になればずっと座れるのではないか、
という落ち着いた状態に至ります。
このときの意識状態は、英語のenlightenmentのように、
「光に照らされている」感覚に陥ります。
そういう意味でenlightenmentという言語表現はしっくりきます。
しかし、日本語としての「悟り」には、私は常に違和感を抱いています。
何故なら、日本のヨガ仏教界では
「精神の最終段階としての悟りを目指そうとしない巷の人々は愚かだ!」
と叫ぶイジメっ子を
往々にして野放しにしているからです。
或るヨガ団体のトップ(もちろん実名は伏せます)はあからさまに
「○○はアホだ」「○○はバカだ」(○○には巷を表現する言葉が入る)
と言い放ちます。私自身は
「おいおい、そうやって不必要に小ばかにする言葉を発信するのは、
単純にいじめを助長する事にはならないか?」
「指導者である以上、深い瞑想に入れるのかもしれないが、
そうやって小ばかにすることがあなたの『悟り』なのか?」
と憤ってしまいます。
英語圏では既にキリスト教の「罪」が根付いてしまっていたことが大きいのでしょうか、「罪」と日本語の「悟り」のニュアンスが全く合わないことに気づき、わざとenlightenmentと訳したのでしょうか。
とにかく
enlightenmentは、本当に秀逸な英語訳だなあ
とつくづく感じます。